2011年12月27日火曜日

2011年 今年の三……、五冊

 年末です。
 そろそろ今年の三冊を選んでみたいと思います。
 まずは、今年読んだ本のリストです。

1.伊藤計劃著「ハーモニー」
2.今野緒雪著「マリア様がみてる ステップ」
3.桜庭一樹著「GOSICK
4.マイクル・フリン著「異星人の郷 上」
5.マイクル・フリン著「異星人の郷 下」
6.伊藤計劃著「虐殺器官」
7.田中久仁彦「一撃殺虫!!ホイホイさん」
8.川口淳一郎著「はやぶさ、そうまでして君は 生みの親がはじめて明かすプロジェクト秘話」
9.桜庭一樹著「GOSICK II その罪は名もなき」
10.桜庭一樹著「GOSICK III 青い薔薇の下で」
11.桜庭一樹著「GOSICKs」
12.桜庭一樹著「GOSICKs II 夏から遠ざかる列車」
13.桜庭一樹著「GOSICK IV 愚者を代弁せよ」
14.桜庭一樹著「GOSICK V ベルゼブブの頭蓋」
15.桜庭一樹著「GOSICK VI 仮面舞踏会の夜」
16.桜庭一樹著「GOSICKs III 秋の花の思い出」
17.野尻抱介著「クレギオン1 ヴェイスの盲点」 再読
18.野尻抱介著「クレギオン2 フェイダーリンクの鯨」 再読
19.野尻抱介著「クレギオン3 アンクスの海賊」 再読
20.野尻抱介著「クレギオン4 サリバン家のお引っ越し」 再読
21.野尻抱介著「クレギオン5 タリファの子守歌」 再読
22.野尻抱介著「クレギオン6 アフナスの貴石」 再読
23.野尻抱介著「クレギオン7 ベクフットの虜」 再読
24.都筑卓司著「不確定性原理 運命への挑戦」 再読
25.ヤマグチノボル著「ゼロの使い魔 18 滅亡の精霊石」 再読
26.ヤマグチノボル著「ゼロの使い魔 19 始祖の円鏡」 再読
27.ヤマグチノボル著「ゼロの使い魔 20 古深淵の聖地」
28.桜庭一樹著「GOSICK VII 薔薇色の人生」
29.朝倉怜士著「オーディオの作法」
30.アダム=トロイ・カストロ著「シリンダー世界111
31.鯨統一郎著「邪馬台国はどこですか?」
32.桜庭一樹著「推定少女」
33.佐藤 勝彦 (監修)「量子論がよくわかる本」 再読
34.桜庭一樹著「私の男」
35.小川一水著「青い星まで飛んでいけ」
36.上田早夕里著「華竜の宮」
37.浅田次郎著「地下鉄に乗って」
38.上田早夕里著「魚舟・獣舟」
39.小川一水著「天冥の標I メニー・メニー・シープ 上」
40.小川一水著「天冥の標I メニー・メニー・シープ 下」
41.小川一水著「天冥の標II 救世群」
42.小川一水著「天冥の標III アウレーリア一統」
43.桜庭一樹著「GOSICKs IV 冬のサクリファイス」
44.ルーシー・モード・モンゴメリ著「赤毛のアン」
45.小川一水著「天冥の標IV 機械じかけの子息たち」
46.ルーシー・モード・モンゴメリ著「アンの青春 赤毛のアン・シリーズ2」
47.ルーシー・モード・モンゴメリ著「アンの愛情 赤毛のアン・シリーズ3」
48.パオロ・バチガルピ著「ねじまき少女 上」
49.パオロ・バチガルピ著「ねじまき少女 下」
50.小川一水著「風の邦 星の渚 レーズスフェント興亡記 上」
51.小川一水著「風の邦 星の渚 レーズスフェント興亡記 下」
52.黒崎政夫著「となりのアンドロイド」
53.中村融編「時の娘」
54.山本弘著「アイの物語」
55.小川一水著「導きの星I 目覚めの大地」
56.小川一水著「導きの星II 争いの地平」
57.小川一水著「導きの星III 災いの空」
58.小川一水著「導きの星IV 出会いの銀河」
59.川原由美子原作「観用少女 プランツ・ドール 完全版 一巻」
60.川原由美子原作「観用少女 プランツ・ドール 完全版 二巻」
61.鬼頭莫宏原作「ヴァンデミエールの翼 一巻」
62.鬼頭莫宏原作「ヴァンデミエールの翼 二巻」
63.川原由美子原作「観用少女 プランツ・ドール 完全版 三巻」
64.桜庭一樹著「GOSICK VIII 上 神々の黄昏」
65.桜庭一樹著「GOSICK VIII 下 神々の黄昏」
66.長谷敏司著「あなたのための物語」
67.山本弘著「地球移動作戦 上」
68.山本弘著「地球移動作戦 下」
69.野尻抱介著「ロケットガール4 魔法使いとランデブー」
70.山本弘著「詩羽のいる街」
71.緒形屋はるか原作「ぽてまよ 5
72.須藤みか著「エンブリオロジスト 受精卵を育む人たち」
73.コニー・ウィルス著「犬は勘定に入れません あるいはヴィクトリア朝花瓶の謎」
74.菅浩江著「そばかすのフィギュア」
75.菅浩江著「プリズムの瞳」
76.河野哲也著「暴走する脳科学 哲学・倫理学からの批判的検討」
77.大野和基著「代理出産 生殖ビジネスと命の尊厳」
78.ルーシー・モード・モンゴメリ著「アンの友達 赤毛のアン・シリーズ4」
79.ルーシー・モード・モンゴメリ著「アンの幸福 赤毛のアン・シリーズ5」
80.香月真理子著「欲望のゆくえ 子供を性の対象とする人たち」
81.ルーシー・モード・モンゴメリ著「アンの夢の家 赤毛のアン・シリーズ6」
82.ルーシー・モード・モンゴメリ著「炉辺荘のアン 赤毛のアン・シリーズ7」
83.グレッグ・イーガン著「プランクダイブ」
84.デイヴィッド・プロッツ著「ノーベル賞受賞者の精子バンク 天才の遺伝子は天才を生んだか」
85.あずまきよひこ原作「よつばと!11巻」
86.百田尚樹著「風の中のマリア」
87.菅浩江著「永遠の森 博物館惑星」
88.栗山緑著「おジャ魔女どれみ16
89.小川一水著「天冥の標 羊と猿と百掬の銀河」
90.菅浩江著「五人姉妹」
91.菅浩江著「ゆらぎの森のシエラ」
92.小川幸辰原作「エンブリヲ 一巻」
93.小川幸辰原作「エンブリヲ 二巻」
94.小川幸辰原作「エンブリヲ 三巻」
95.ルーシー・モード・モンゴメリ著「アンをめぐる人々 赤毛のアン・シリーズ8」

 以上、95冊です。
 SF42冊、ラノベ18冊、コミック10冊、「赤毛のアン・シリーズ」が9冊(現在読みかけの本も入れると10冊)、などが主な内訳です。
 今年もかなり乱読でして、前半は、野尻のクレギオンシリーズなどを再読しています。昨年までSFをあまり読んでいませんでしたので、その反動が今年来た、っていう感じですね。一年中、堪能させていただきました。
 とくに、伊藤計劃の二冊は、もう、本当にすごい!のひとこと。そして、溜めた挙げ句に一気に読んだ小川一水の「天冥の標シリーズ」は、もうSF好きで良かった!と思える内容。そして、菅浩江のすばらしい短編の数々。今年の読書は充実していました。
 では、今年の三冊、発表します。
1.伊藤計劃著「ハーモニー」
2.山本弘著「アイの物語」
3.小川一水著「天冥の標IV 機械じかけの子息たち」
 こうなりました。
 しかーっし!ここでどうしても外せない作品が二冊あって、それを特別枠ということで、
4.菅浩江著「プリズムの瞳」
5.川原由美子原作「観用少女 プランツ・ドール」
 これらも入れたい!
 全然「今年の三冊」じゃないですね。(^_^;)
 でも、そんな厳格に選ばなくてもいいんです。なぜなら、ここは僕の日記帳なので。(^_^;)
 「ハーモニー」と「アイの物語」は文句なく今年の三冊です。ちなみに、伊藤計劃の長編は「虐殺器官」より、僕は「ハーモニー」の方がよく書けていると思うのです。あの読後感は、なんとも言えませんね。
 「天冥の標IV 機械じかけの子息たち」はかなり迷いました。しかし、エロ小説(し、失礼!w)にも関わらず、なぜこうも読者に問いかけてくるのか?この力量!さすが一水です。たんなるエロではなく、快楽を求めることはどうして軽蔑されるのか?なぜ、それはそれほどまでに恥ずべきものなのか、といった僕たちの感情の根源のようなものまで考えさせられる作品でした。
 「プリズムの瞳」は、アンドロイドを描きつつ、その実、人間を描いているといううまさ。今年はじめて読んだ作家なのですが、かなりはまりました。
 そして、最後のコミック「プランツ・ドール」は、少女と女の境界のようなものを描いていて、「あ~あ、こいつ女になっちゃったよ」みたいな、ロリコンとしては残念な瞬間を描いていて、面白かったですね。
 これら以外では、生殖医療に関するノンフィクションがなかなか考えさせられるものばかりで、読み応えがありました。不妊というのは病気なのか?子供が欲しいと思う気持ちは欲望なのか?
 須藤みか著「エンブリオロジスト 受精卵を育む人たち」、大野和基著「代理出産 生殖ビジネスと命の尊厳」、デイヴィッド・プロッツ著「ノーベル賞受賞者の精子バンク 天才の遺伝子は天才を生んだか」など。気になった方は、ぜひお読みください。
 「赤毛のアン・シリーズ」は、全巻読み終え次第、感想など書きたいと思います。
 今年の後半、とくにその傾向が顕著なのですが、じつは「今年の五冊w」のうち2~5までがすべてアンドロイドのお話しだということで、無意識のうちに、僕はそう言ったテーマの作品を選んでいたようです。
 菅や山本の作品には、アンドロイドを他者と捉え、そのアンドロイドに何を見いだすかは、人間の側の問題であり、そこに見いだしたものが、その人間性を浮き彫りにしていく、といったような特徴があります。あるいは、川原のコミックでさえ、そういう表現がされています。小川の作品では、アンドロイドの行動自体が、ヒトとは何かを問いかけているようです。それに、ねじまき少女に対するバチガルピのスタンスと、小川の<恋人たち(ラヴァーズ)>に対するスタンスの違いといった比較も楽しかったです。(どちらも性玩具としてのアンドロイドである)
 この他にも、SFマガジンに掲載された短編なども読んでいて、その感想なども書きたかったのですが、体力が……orz
 来年、またがんばります。

2011年12月19日月曜日

おがわ甘藍ではない小川作品

 小川幸辰原作「エンブリヲ」全三巻、読了です。
 小川幸辰というと、現在おがわ甘藍名義での仕事が多く、いまでは一般誌にマンガを書いているようですが、一時期は成人マンガばかりでした。
 その成人向けのマンガの内容というのが、ことごとく年端のいかない少女を対象とした作品でした。いわゆるロリコンものですね。
 僕は、おがわ甘藍名義での絵がきらいではなく、成人マンガもストーリー性があって好きでしたので、小川幸辰名義だったころの作品にも興味を持って、今回読んでみました。
 生物学ホラーということで、蠢く虫や肉体を虫に食われていく描写など、グロテスクな描写が多く、独特の雰囲気を持った作品に仕上がっています。
 そのグロテスクさと、虫の卵を宿し、虫を慈しんでしまう主人公布良が清楚な少女であるという対比は、どこかで見た対比だと思い、考えてみると、「風の谷のナウシカ」なんですよね、これって。腐海の森の猛毒の植物をこっそり育て、蟲に愛情を注ぐナウシカは、まさに布良です。しかも、布良が出産した新種の虫が、沼の水質を浄化しているなんて話は、それこそナウシカのような気がします。
 最終巻である三巻で、小川は、現在の絵柄で後日談のようなエピソードを書き加えています。小川幸辰の絵柄が好きな人にとって、あの加えられた二ページで、作品全体をぶち壊してしまっているようにかんじるかもしれません。ところが、僕はいま現在のおがわ甘藍名義の絵が大好きですので、この二ページによって救われた気がします。
 僕の場合、できることならば、おがわ甘藍名義でこんな作品描いてほしいですね。ファンタジーありの、微エロありの、そんなホラー。どうでしょう?

2011年12月10日土曜日

五人姉妹

菅浩江著「五人姉妹」、読了です。
 表題作「五人姉妹」は、五人のクローンが織りなす多様な生き様が、遺伝子への幻想を打ち砕くかのような短編です。はたして、同じ遺伝子でここまで多様な性格が作られてしまうのかは、そういった実験結果が存在しない(というか、存在してはいけない!)ため、わかりません。しかし、それこそSF的なイマジネーションで、では、自分を形成していった要素とは何なのだろうかと考えさせられる、面白い短編です。
 菅は、仮想的な何か(アンドロイドが多い)に自己を投影させ、そこにできあがった幻影のような自己に、本当の自分の姿を見せてしまう天才だと思うのですよね。だから、二本目の短編「ホールド・ミー・タイト」や「夜を駆けるドギー」「賤の小田巻」「子供の領分」などの短編は、仮想的な領域にいるときにこそ真実が見えてくるような、そういった面白さがあります。
 恋愛SF小説として秀逸な「ホールド・ミー・タイト」と「箱の中の猫」。この二作品に見られる細やかな心理描写は、もう、最高ですね。w 参りました。
 「永遠の森 博物館惑星」(批判的なことしか書けそうになかったので、感想を書いていません)の面白さがよくわからなかった僕としては、「お代は見てのお帰り」がやはりよくわからなかったし、「秋祭り」もちょっと批判的な感想があります。
 「秋祭り」って、支倉凍砂著「狼と香辛料」のホロが、村には必要のない神さまになってしまったみたいな、そんなことを言っているのですよね?w
 神さまに幻想が抱ける人って、いいよなぁ。「やさしい神さま」なんて、太古の昔からいらっしゃらないように思う(仮に神さまがいると仮定して)のですが、それって僕のたんなる主観なのでしょうか?

 もう一冊。

 小川一水著「天冥の標V 羊と猿と百掬の銀河」、読了です。
 シリーズも中盤ですね。これまでの四作品が派手で強烈に面白かっただけに、今回はすこし地味で説明くさかったかも?
 そしてやはり、スペオペの古典と言えるスミスの「レンズマン」みたく、ふたつの勢力の代理戦争のような図式になってしまうのでしょうか?(おまえら、自分らで戦争しろよ!みたいな……w)
 これって、小川の「導きの星」のときにも感じた危うさなのですが、下手するとただの薄っぺらなスペオペで終わってしまう可能性もあって……、いや、長編シリーズものにリアルタイムで付き合うと、読んでるこっちもはらはらしてしまいますね。(^_^;)
 っていうか、小川は、こういうのが好きなのかも。
 細かい部分をつまみ出してみれば、興味深い箇所もあるのですが……、う~ん、やっぱり不安だなぁ。(^_^;)
 ひとまず、この作品は次回作に期待しましょう。

 今後の読書予定です。
 SFマガジンを古いものも含めて何冊か買ってしまったので、その中からいくつかつまみ食いします。その後は、「赤毛のアン・シリーズ」の残り三冊を読みます。
 年内はこれくらいが限界だと思うので、それを読み終わり次第、今年の三冊を選びたいと思います。

2011年12月5日月曜日

16才になったどれみ

 栗山緑著「おジャ魔女どれみ16」、読了です。
 桜庭一樹の「GOSICK」が終わり、今野緒雪の「マリみて」も本シリーズが終わってしまい、「ゼロの使い魔」はヤマグチノボルが病気療養中ということで新刊待ち。だから、読むラノベがない!と思っていたところに、おあつらえ向きにこのシリーズの登場です。当時、リアルタイムでアニメを見ていた一ファンとしては、これはもう読むしかないでしょう!
脚本家山田隆司が、栗山緑名義で書いている本作は、どれみの一人称と微妙に辿々しい文章の所為か、どれみらしさがよく出ていると思います。内容的にも、子供向けとは思えないヘビーな題材を使う(介護問題や登校拒否など)アニメだったような記憶がありますので、この小説で書かれている、瀬川美保が脳梗塞で倒れ、春風渓介の仕事が減った──、というような世知辛さも、「どれみらしさ」です。(ですよね?w)
小説ってことなので、アニメでは描けないどれみの内面に深く切り込むような内容も期待してます。これから描かれるであろう小竹とのエピソードも、きっちりと「らしい」心理描写を望みます。
 読んだあとに、懐かしくて、無印の18話「使っちゃダメ! 禁じられた魔法」を久しぶりに観てしまいました(脚本担当はもちろん栗山緑)。やはりいい脚本です。クラスメイトの岡田ななこちゃんを動物嫌いのままにしたくないはづきちゃんの、心の内が手にとるようにわかるんですよね。
 じつは、僕の好きな無印のエピソードをいくつか挙げると、脚本家はたいてい吉村元希だったりするのですがw、18話のような栗山のお涙ちょうだいエピソードも嫌いではなかったので、今後、そういったエピソードにも期待です。
 おジャ魔女って、脚本家の個性がすごく前面に出ていて、毎週楽しみだったのですよね。影山由美の女の子らしさを強調した脚本も良かったし……。
 こうなったら、栗山さんヴァージョンのどれみだけではなく、景山さんヴァージョンのどれみや成田さんヴァージョンのどれみ、吉村さんヴァージョンのどれみとか、女性脚本家たちの小説「どれみ」も読んでみたい気もします。女性が書く「高校生になった女の子の本音」は、少々生々しくなってしまうかもしれません。ですが、どれみはもともと女の子向けのアニメです。男の期待など、平気でぶっちぎってしまうくらいの勢いで、どれみの「女」の部分を描いて欲しい気もします。
 いや、ラノベでそれはまずいか……。(^_^;)

2011年11月24日木曜日

包括適応度を理解するオオスズメバチ

 百田尚樹著「風の中のマリア」、読了です。
 オオスズメバチの一生を、徹底的に擬人化して描いています。しかし、擬人化されていても、彼女らはあくまでもオオスズメバチです。主人公のワーカー、マリアは、自分たちの妹のために、毎日狩りに出かけ、縄張り争いをして、せっせと日々働きます。
 どうしてわたしたちは子供を産めないのか、と悩み、何のために生きるのか、と哲学者のように考えるオオスズメバチ。そして、いきなり染色体やゲノムの話を始め、ハチやアリなどの社会性昆虫に見られる半倍数性の性決定について、オオスズメバチが解説(!)を始めます。さらに、その半倍数性による遺伝子の分配確率から、ハミルトンの包括適応度にまで話が進みます。
 たぶん、オオスズメバチの世界にも、ダーウィンやメンデル、クリックやワトソンのようなハチがいたのでしょう。それに、たぶん、ハミルトンやドーキンスも……。(^_^;)
 オオスズメバチのワーカーたちは、血縁度の計算をしながら、妹たちを育て、女王バチの世話をし、身を呈して巣を守っている──、わけではないので、オオスズメバチ自身に、この包括適応度の解説をさせるのはどうかなぁ?と思ったのですが、女王バチがオスを産む場合と、ワーカーがオスを産む場合は、ワーカーから見てどちらが包括適応度が有利になるかなんて、解説がなければ普通わかりませんよね。だから、わざわざオオスズメバチに解説させたのでしょう。
 ただ、「女王バチ」というネーミングにも、人間のバイアスがかかっていて、はたして女王バチは本当に女王のようにその巣の中に君臨しているのかは、大きな謎です。女王は、ワーカーたちをフェロモンで支配しているかもしれませんが、ワーカーによって彼女たちの姉妹を強制的に生み続けさせられている、とも言えるように思います。(女王─ワーカー間コンフリクト)女王バチの最後は、それを物語っています。ワーカーは、女王にオスを産ますよりは、自分たちで産もうとしたくらいですからね。
 性決定メカニズムが半倍数性の場合、女王バチやワーカー、オスとの関係が複雑でわかりにくいものになります。この本は、血縁度の解説を交えつつ、彼らの関係をわかりやすく解説していて、社会性昆虫の理解に役立つのではないかと思います。

2011年11月14日月曜日

プランク・ダイヴ

 グレッグ・イーガン著「プランク・ダイヴ」、読了です。
 日本オリジナルの短編集であり、どの短編も硬質なハードSFという読み応え十分な一冊でした。
 短編の中でも、数学におけるプラトンのイデア論的実在主義をSF的手法で表現している「暗黒整数」は、なんか、もうすごいの一言ですね。数学的公理の違った別の世界が、この世界と隣り合って実在し、常にこちら側の世界(あるいはあちら側の世界)に影響を及ぼそうとしている。それは、つまり数学的公理によって示される数学が実在的であり、決して数学とは空虚な数字遊びではないということを意味しています。ただ、すこし視点を変えれば、こちら側の数学的公理を脅かすものが、例えば宗教であったり、思想であったり、ときには政治哲学であったりして、そういうものがあちら側の数学的公理であり、常にこちら側の数学を浸食しようとしている、というふうにも読めてしまいます。(イーガンはこんなことを書いてはいない、と十分承知している。僕の頭の中でのお遊びということで、お許しください)
 「ワンの絨毯」は、長編「ディアスポラ」の一部なのですが、長編に組みこまれるときに、多少書き直されているようです。それでも、ワンの絨毯内部で演算されている内部を想像したときに、「では、そこで思考しているものは何者なのか?」といったような意識の問題や、生命というものの定義などをあらためて考えさせられる作品になっています。
 「プランク・ダイヴ」は、正直言って冒頭の素粒子の話から、何を言っているのかさっぱりわからなかった作品です。(^_^;)
 サハロフという科学者から一世紀後、クマールという人の打ち出した理論とあるので、たぶん、イーガンお得意の架空物理学だと思われます。(サハロフは実在する核物理学者のようですが、クマールは……?w)その理論を実証するためには、馬鹿馬鹿しいほどの高エネルギーが必要(たぶん、ハイゼンベルグの不確定性原理がはたらくからだろう。架空物理学なのでなんとも言えないけれど)で、ポリスの住人たちはその理論の検証のためにプランクスケール(最小の長さのスケール、とあるので)となって、ブラックホールにダイヴしようとするわけです。(あってますよね?w)
 ところが、ブラックホールにダイヴし、事象の地平線を通り抜けてしまうと、地平線の外とは因果関係を保ち得ないので、新たにわかったことも、地平線の外には知らせることもできない、となってします。
 ただ、プランク・ダイヴしたポリスの住人たちは、地平線の向こうで、無限に演算することが可能となったため、もしかすると将来、地平線の外側に向かって情報を伝達する方法を見つけ出すかもしれない、という結末に至ります。
 また、彼らの偉業を後世へ伝えようとする伝道者のような人物が登場して、プランク・ダイヴという事業そのものを曲解し、脚色してまで、物語として保存しようとするのですが、面白いことに、その行為をイーガンは冷ややかに否定してしまいます。もうすこし、物語の伝道者を肯定的に描いてもよかったと思うのですよね。だって、イーガン自身、物語を書いているわけなのですから。いや、違うかな?物理の探究は、それを語る人によって言葉で語られるようなものではなく、純粋に数理の世界である、ってことだろうか?うむむ、でもそれだと、イーガンのようなハードSFこそ不要なものとなりそうな気がするのですが……。

2011年11月1日火曜日

子供を性の対象とする人たち

 香月真理子著「欲望のゆくえ 子供を性の対象とする人たち」、読了です。
 何度も書いていますが、僕はロリコンです。
 とくに、一〇歳から一四歳ころまでの少女に性的な魅了を感じてしまいます。これが病気であるのかどうかはともかく、人の理想的な性にはある程度の変態的な逸脱があり、その嗜好や空想を規制することはできません。そういったことを踏まえ、また、そういった人がいることを事実して受け止め、彼ら(僕も含めて)を否定しないというスタンスで香月は取材を敢行しているようです。
 自らも子供時代に性被害にあい、それによって少なからず苦悩したという香月の経験が、こういった取材への情熱となっているようです。ただ、サブタイトルにもあるように、この取材の目的は、子供を性の対象とするということはどういうことなのか、という命題的なものへの解答を指し示すのではなく、あくまでも、子供を性の対象とする人たちにはどのような種類があるのか?という、いわば博物学的な羅列に終始しています。
 僕の私的な意見を述べさせてもらえるならば、香月が網羅した子供を性の対象とする人たちには、犯罪者とそうでない者の区別が無く、あたかも、犯罪の動機と倒錯の根源が同一であるかのように書かれているのは問題だと思います。
 大人の女性にも興味がありながら、その代替物として子供を傷つけることと、子供に性的な魅力を感じることは違うことです。香月自身の取材にもあるように、小児性愛者が踏みとどまれずに一線を越えて犯罪に走ってしまう原因は、性的な欲求もあるのでしょうが、希薄な人間関係であったり、金銭的な行き詰まりによる刹那的な衝動であったりするようです。それは、小児性愛者だけではなく、犯罪者全般にも言えることなのではないでしょうか。
 人を殺したいくらい憎んでしまうことは誰でもあることです。でも、本当に殺してしまうのか、手前で踏みとどまるのかは大きな違いです。電車の中で、ミニスカートの成人女性の太ももに魅力を感じたとしても、それに触れてしまうことと、魅力を感じたままおわることとは違います。この場合の痴漢行為の原因が、成人女性への性的な欲望であるならば、成人女性へ性欲を抱くことは犯罪であり、ケアを必要とする心の病気なのでしょうか?
 多くの日本人は、たとえ本人が否定しようともロリコンであると僕は思っています(多くの成人男性は否定するだろう)。テレビに登場するアイドルの年齢や容姿、氾濫するアニメやマンガなどに描かれる少女の幼さから推測(※1)すると、女性も含めて(※2)、日本人全体が幼さに萌え、可愛さに性的な魅力を感じています。子供を可愛いと思うことは、少なくともこの国では正常な嗜好であり、マイノリティではありません。
 しかし、可愛いと思うことと、彼ら彼女らをじっさいに傷つけてしまうことは違います。

1:アニメなどによる作画に、左右の距離の離れた眼球、小さな口や未発達なアゴ、顔の上下方向の中心より下側に配置される目鼻など、ベビーシェマが多く見られる。また、そういったベビーシェマを持つ女性に性的な魅力を感じていることは、一八禁の同人誌などからも伺える。

2:増淵宗一著「リカちゃんの少女フシギ学」や蔵拓也著「美しさをめぐる進化論 容貌の社会生物学」などによる著書より、そういった答が導かれる。女性自身が幼くありたいと望んでいるかのようだ。

2011年10月25日火曜日

「自動車をつくる」という行動戦略に遺伝子がある??

 サルなど動物の売春行為について調べていてたどり着いたウエッブサイトです。

http://homepage2.nifty.com/anthrop/selfish_gene.html

 「利己的な遺伝子」を批判されているようですが、反論があります。
 上記URLにて、榎本知郎は、『たとえば、「自動車をつくる」という行動戦略があったとしよう。といったような仮定から議論をはじめられています。しかし、人が自動車を作り始めたのはここ百数十年ほどまえからであり、そういった遺伝子があるはずがないと明らかであるのに、なぜそのようなあり得ない仮定から議論を始めるのか、謎です。人の行動パターンひとつひとつに対応するような遺伝子(例えばブログを書く遺伝子とか w)があるはずがなく、この議論がいかに空論であるかわかります。
 話の切り出し方として、例えばビーバーのダム造りやカッコウの托卵行動など、その動物特有の生得的な行動とされている事例が多くあり、この議論の場合、そのような行動ひとつひとつと遺伝子の対応を述べて批判した方が妥当であるように思えます。
 人の行動には文化的側面が多く影響していて、それが生得的なものかそうでないかの判定は難しいものとなっています。ニホンザルの、サツマイモを海水で洗って食べるような行動が、文化的であることは明らかなのですが、その文化継承を可能にした脳の発達、あるいはその行動に関わるすべての器官の進化は遺伝子によるものでしょう。
 「自動車を作る遺伝子」などの仮定は、「サツマイモを洗う遺伝子」などと言っているようなもので、まったく無意味な仮定です。
 たしかに、「托卵行動」をする遺伝子が、「カッコウのDNAの、こことここにある!」といった研究は、『母性遺伝するミトコンドリアDNA に違いが見出されたことから、カッコウの托卵系統(宿主特異性)は、雌側を通してのみ維持されている可能性が高まった。といった程度のことしか明かされていないわけで、榎本の言うように、『つまり、完璧な複雑系なのである。「戦略遺伝子」だけを行動現象から切り取ることはできないし、正確な因果関係を知り得ない』のかもしれません。しかし、托卵行動を決めるいくつかの遺伝子(前述のようにどれだかは、わからないが)は明らかに遺伝しているし、その遺伝によって、カッコウが選択する宿主の傾向が決定して、托卵行動が成功するか失敗するかといった適応度に関わる行動にも影響を及ぼしています。
 また、『解のある方程式はないということは、進化の結果としての生物の状態が、行動戦略論で仮定する「最適値」であるかどうかはわからない、ということを示している。ということなのですが、それはあたりまえです。だって、僕たち人類を含めた多くの種は、それぞれが占めている生物学的なニッチの中に、「最適値」を持って君臨しているわけではないからです。僕たちを含めた多くの種は、そのニッチの中で、変化(進化)の過程に生きているに過ぎず、わずかに他の種よりも繁殖に有利なだけです。それこそ複雑系が向かう途上にあるわけで、進化の最終結果として現存種が生きているわけではありません。これって、忘れがちなんですよね。(^_^;)
 じつは、僕も榎本とは違った理屈から「利己的な遺伝子」への懐疑的な思いはあります。生物の行動を決定づける基本的な構造物が遺伝子であるといったような仮定は、遺伝子を捨ててでも数を増やそうとする細菌のふるまいは説明できません。細菌は、あたかも脂肪酸の膜で覆われた複雑な環境を、ただふたつに増やしたいと永遠に願い続けているようにも思えるからです。利己的な遺伝子という概念があてはまる真核生物は、ミトコンドリアとの共生によってなんらかの束縛を受けてしまい、利己的な遺伝子のような戦略を取らざるを得なくなった生物であるようにも思えます。そう考えれば、生物の純粋な欲求とは、遺伝子の伝達ではなく、細胞の増殖にあるように思えるのです。そのために、細胞は分裂に必要な遺伝子だけを利用したいのではないか、と。この考え方に基づけば、たまに真核生物の取り決めに反して増殖し始めるガン細胞が、個体の死とともに淘汰されてしまう理由もなんとなく理解できるように思いませんか?

 最後に。
 べつに、実際に遺伝子が望んでいるわけでもなく、細胞が願っているわけでもありませんので、誤解なきように。(^_^;)
 また、『』内は引用文です。
 カッコウの托卵行動に関する引用は、

http://wwwsoc.nii.ac.jp/osj/japanese/katsudo/taikai/2004Nara/sympo/S4.pdf

 上記URLにあるpdfファイルからのコピペです。

2011年10月21日金曜日

市場原理に従う代理出産ビジネス

 大野和基著「代理出産 生殖ビジネスと命の尊厳」、読了です。
 代理出産、とくに、夫婦のうち、夫だけの精子を使い、代理母の卵子と人工授精させるような代理出産の場合、それが浮気の結果できた子供を引き取るようなものだ──、といったようなことを、代理出産を依頼した側の夫が感じているというのが、なかなか興味深い話でした。
 たしかに、この代理出産による遺伝子の受け渡しの構造のみを見れば、そうなのかもしれません。
 妊娠は、元来、性行為によって男性が女性のヴァギナにペニスを挿入する、という手段を踏まなければ不可能でした。それが科学技術の進歩で、それ以外の方法でも可能になったわけです。僕には、この性行為を伴わない妊娠こそ、人の盲目的な倫理観に繋がっているように思えています。
 妻は、夫が浮気をすることは許せなくても、精子を提供して、他の女性を妊娠させてしまうことは許せてしまう。これは、進化の道のりの中で得た、人の「裏切り者を見つける能力」の限界を超えているからであろうと想像できます。
 精子だけを他の女性の体内に注入する男性など、これまでのホモ・サピエンスの歴史の中ではあり得ませんでした。そこに性行為や快楽といった、遺伝子の交叉にかならずつきまとっていた行為や感情はなく、機械的に遺伝子の受け渡しがおこなわれるだけです。そういった行為を、背信行為と認識するだけの能力が、僕たちの心には備わっていないのでしょう。
 しかし、遺伝子の受け渡しの構造だけを見れば、それはあきらかに妻以外の女性を配偶者として選んだということであり、浮気と同じ構造をしています。しかし、実際、そういったやりとりがおこなわれたとしても、僕たちは、その事実について盲目的な倫理観しか持ち得ません。
 これは、体外受精による受精卵を使った代理出産にも、同じようなことが言えるのではないでしょうか?
 妻以外の女性の体内に、夫と妻の受精卵を植え付けるような行為は、人類の長い歴史の中でも無かったことです。そういった行為に、なんらかの感情を抱けるような心の構造を、僕たちは持ち得ていないのでしょう。それが生命工学に対して、僕たちの倫理観を盲目にしている一番の理由のような気がします。
 他の女性の体内に受精卵を植え付けるような行為には、なにも感じないが、直接、夫が他の女性のヴァギナにペニスを挿入することには直感的に激しい怒りを感じる──。その理由は、進化的な道のりの中で、人がどのような行為を背信行為として認識していたのかによるのでしょう。この、人がどう認識していいのかわからないような行為が、代理出産であり、人工授精や体外受精といった生命工学です。
 僕はこの本で、代理出産ビジネスというものが、すでに世界規模でスタンダードなものになりつつあるという事実を初めて知りました。
 先進諸国の比較的裕福な人たちが、インドなどで比較的安く代理出産を依頼するという、代理出産のアウトソーシング化にまで発展しているという事実に、少なからず衝撃を受けました。
 妊娠して出産するという行為が、労働であり、その労働市場が市場原理に動かされているのであれば、男性が女性との性行為を望み、女性側も利益を得ようとする売春行為もまた、立派な労働であるように思われます。
 このビジネス化された代理出産と売春との違いは、性行為や男性の快楽を伴っているかどうかの違いであり、女性の肉体的な負担(そして精神的な負担も!)は、代理出産の方が確実に大きいと言えます。だから、それによって得られる代理母の収入も大きなものになるのでしょうが……。
 しかし、現在の先進国における裕福な人たちは、代理出産の依頼者側であり、一方の行為(裕福な男性が、貧困にあえぐ女性を買うような行為)を倫理的に否定し、一方の行為(裕福な人たちが、貧困にあえぐ人たちの子宮を道具として借りるような行為)を肯定してしまっています。
 この盲目的な倫理観は、代理出産のような行為が、前述のような進化論的な歴史の中で、人類が体験しなかった非常に特殊な行為だからなのでしょう。
 極端な話。仮に、こういった代理出産ビジネスが市場原理によって推し進められるなら、裕福な女性(女性だけとはかぎらないだろう)たちは、誰もが妊娠や出産という危険を冒すことなく、途上国などの金銭的に安い子宮をレンタルして子孫を残すことを選択するかもしれません。売春という行為に直面したときの倫理観に照らし合わせるならば、代理出産という行為もまた、そこに市場原理があっていいはずはないように思えます。そして、そうではなく、市場原理に突き動かされた代理出産が倫理的に正しいとするならば、売春という行為もまた、許されるものかもしれません。金銭的な困窮状態におかれた女性たちが、代理出産ほどの肉体的あるいは精神的な苦痛を感じることなく、比較的負担の軽い労働を得ることは、それこそ救済につながると思うのです。
 断っておきますが、僕は売春を正しい行為だと述べているわけではありません。ビジネス化された代理出産と売春は、同一の問題を孕んでいると、人が気付かないのは、一方の行為が進化論的な人の歴史の中であり得なかった行為だからだ、と述べているにすぎません。
 代理出産が、子供を持てない夫婦の救済であることは承知しています。代理出産が彼らを救うなら、医療行為として代理出産はひとつの治療なのでしょう。ただ、それが市場原理によって推し進められることには、疑問が残ると思います。
 
2011/10/25 修正

2011年10月19日水曜日

頭の中身について

 河野哲也著「暴走する脳科学 哲学・倫理学からの批判的検討」、読了です。
 著者は、fMRI(機能的核磁気共鳴法)やPET(陽電子放射断層撮影法)などの機器によって、脳内の活動が視覚的に研究することが可能になったことを受け、その結果の画像が、さも感情や知覚と因果関係にあるかのような解釈が与えられている昨今の脳科学を批判しています。
 茂木健一郎などの脳科学者がテレビ出演するなど、テレビ等のメディアにおいても脳科学はブームのようで、当然のように新聞の一面を割いて脳トレの特集が組まれ、書店では脳科学の視点から書かれた頭の良くなるような本が並べられています。
 そういった本にありがちなのが、特定の場所の脳機能と知覚したり記憶したりする行動を一対一に割り振ってしまうような理屈※で、僕もそういったある意味乱暴な脳機能の意味付けに懐疑的だったので、河野の主張は十分受け入れられるものでした。(※fMRI画像を提示して、どこそこの部位が活発に活動してるので、記憶能力がアップしているとかなんとかいう、アレです。w)
 ただ、ベンジャミン・リベットの自由意志の研究に関しては、少し反論があります。
 ベンジャミン・リベットの言う0.5s遅れのアウェイアネス(気づき)は、「よし、やろう!」と決意した場合の気づきのみを言っているわけではない、ということです。
 リベットの実験結果は、つねに、僕たちの意識(つまり、気づき)は、脳の準備電位の発生よりも0.5s遅れて生じ、その後、意識が0.5s遡って時間的なズレを打ち消してしまうというものでした。
 つまり、自由意志に関しては、ユルゲン・ハーバーマスの言うように、行為者の自己理解があるために、次に行なうべき自分の行動を選択できるわけです。
 ところが、その行動を選択しようするきっかけとなった何らかの物理現象──、その行動を取らせようとした最初の一押し、というのが、気づきの0.5s前に、準備電位として生じてしまっているわけです。その後、気づきとして意識の表層に現われた決断に対して、十分な良否判定をし、その行動を行なうか、行なわないか、を選択できる(つまり、ここに自由意志がある!ハーバーマスはこれを言っているのだろうと思う)わけです。
 しかし、十分な良否判定をする余裕のない場合、僕たちは、稀にとんでもない失敗をしている場合があり、後になって「どうしてあんなことをした(言った)のだろう」と後悔することもあるかと思います。僕は、そういった行動こそ、人の意識の0.5s遅れを証明しているようにも思えるのです。
 つまり、最初の一押し、行動のきっかけとなる準備電位は、自由意志と思っている気づきの0.5s前にあり、それはやはり、自由と思っていた意志が、神経細胞に操られているだけかもしれない、ということを示唆しています。

 で、一箇所、ツッコミです。
 抜粋します。

──ここから──

 移動について考えてみよう。ある生き物が移動するとき、たとえば、昆虫が暖かい場所をめがけて直進してくるように、まったく他の選択がなく行なわれる機械的な反射行動には自由はない、といえるだろう(しかし、本当は、昆虫が機械的な行動しかできないかどうかについては常識を疑ってみるべきである。ダーウィンの観察によれば、ミミズの行動も選択的である)。

──ここまで──(河野哲也著「暴走する脳科学 哲学・倫理学からの批判的検討」光文社新書一六八頁より)

 ミミズは昆虫ではありません。(^_^;)

2011年10月18日火曜日

アンドロイドは心の中の他者なのか?

 菅浩江著「プリズムの瞳」、読了です。
 意志を持たないアンドロイドに何を見るか?は、そのアンドロイドを見つめている人の心そのものです。
 アンドロイドが反乱を起こして人を殺すのではないか。
 人の知能を圧倒的に凌駕して、人はアンドロイドに使われるのではないか。
 アンドロイドが人に代わって、この地球を支配するのではないか。
 こういった疑心暗鬼は、それが人の心の映し鏡であることに気付くでしょうか?
 例えば、小説を書くアンドロイドいて、その小説がベストセラーになってしまった場合、あなたはそのアンドロイドを賞賛するでしょうか、嫉妬するでしょうか。ちなみに、あなたは売れない小説家です。
 アンドロイドには、本を書いてベストセラーにしてやろうとか、ライバルの小説家よりもおもしろい作品を書いてやろう、などの意志はなく、ただ、アルゴリズムに従って小説を書いただけなのですが、その結果に、どのような感情を抱くかは、その作品と対面したときの各個人の心のありようで変わると思うのです。
 僕はこの本を読んでいると、「アンドロイド」というガジェットを使った小説を書こうとするときの、それぞれの作家たちが持っている心も映し出しているように感じました。
 アンドロイドを殺人ロボットして描くのか、性玩具として描くのか、ただの絵描きとして描くのか?
 ハリウッド映画などの「アンドロイドといえば殺人兵器」みたいな設定は、やはり、作り手側、あるいはそういった映画を好んで観る観客の心を反映しているとしか思えないのです。
 想像上のアンドロイドという観念そのものが、人の心を反映していて、では、観念的な心の中のアンドロイドとは何なのか?と問われば、それはその人の心の中にある他者(あるいは異性)のようでもあります。他者に善意を見るのか、悪意を見るのか、それは人それぞれなのでしょう。

2011年10月17日月曜日

仏陀再誕再観!

 僕は、「すべての宗教はインチキだ」と思っています。神や悪魔、霊や魂、天国や地獄など、人の神経細胞が生み出した空想上のクリーチャー、あるいはアーティファクトです。映画「仏陀再誕」の中で、霊界の裁判官(?)が糾弾していた唯物論者ですね。(^_^;)
 さて、久しぶりにその「仏陀再誕」を観ました。
 前半から、唯物論者の金本さんが霊界で糾弾されていたり、医者である小夜子の父親が空野に説教食らっていたりと、唯物論者の僕にとっては耳の痛い映画となっております。
 この映画、操念会の会長によって、主人公小夜子の弟が現代医療では治せない病にかかり、それをTSIの空野が霊能力で治療する場面があります。この、不治の病がTSIの力によって治ってしまう、というような描写は、裏を返せば、TSIの力がなければ治せない病気があり、仮にそういった力を信じないのであれば、死んでも仕方ない、といっているようでもあります。
 この、遠回しな脅迫は、敵方の操念会会長が唱えている論と同じ手法であることに気付きます、よね?それは、恐怖による支配です。
 操念会の会長の論を、自らにとって都合のいいような主張であるとして否定する空野の主張もまた、自分にとって都合のいいような論をお仕着せようとしています。
 空野さん、「人間の本質は心にある!」と叫ばれているようですが、その根拠は?
 「真理は!」とか「本質は!」などと叫ぶ人間の主張をよく聞くと、それはたんに「俺の言いたいことは!」と叫んでいるに過ぎない場合が多いのですよ。
 政治の世界で繰り広げられる討論のカリカチュアのようなふたりのかけひきです。俺の言うことが正しい!いや、俺の言うことが正しい!みたいな。
 宗教的な主張がいかに多くの人に受け入れられるのかは、とても政治的なかけひきであり、それが正しいかどうかは関係なく、多く人心を掌握した宗教が将来生き残っていくのでしょう。
 この映画では、TSI側が勝利したので、空野に「俺が正しい!」と主張する権利が生じたわけです。そして、勝った空野の方が、「俺がブッダの生まれ変わりだ!」と叫ぶことができるわけです。操念会会長が言うとおり、まさに、この世は弱肉強食ですね。

 ちなみに、巷では、登場人物の空野は大川隆法だとか、荒井は池田大作だなどの憶測が飛び交っているようですが、この映画では一切そのように述べられてはいないので、今回は、そういった憶測なしに書いてみました。
 仮に、現実世界にTSIなる宗教団体があり、その宗教団体がプロパガンダとしてこの映画を作ったのであれば、小夜子が、操念会の集会に参加し、感化されそうになった場面で、ぜひ、現実世界でこの映画を観ることによって感化されそうになる危うさにも、この映画を観た人たち全員に気付いて欲しいと思うのです。
 映画の中で操念会の会長がやっていたことと、そっくり同じことを、空野さんは映画館に来た人たちにしているのですよ。
 恐いのは、この映画の対象としている人たちが、リテラシー能力の低い比較的若い年齢であることです。そのために声優陣を豪華キャストにし、主人公を小夜子のような女子高生に設定したのでしょう。弱者を狙う、非常に狡猾で卑劣な手段ですね。
 現実世界で、宗教団体がこういったTSIのような卑劣なプロパガンダを行なうことのないよう祈ります。
 大丈夫ですよね?「TSI」は、「幸福の科学」ではないですよね?

2011/10/19 修正

2011年10月12日水曜日

アンドロイドは人を映す鏡

 菅浩江著「そばかすのフィギュア」、読了です。
 たまたま取り寄せたSFマガジン2008年4月号に掲載されていた「流浪の民」を読んだのがきっかけで、この菅の初期作品集を手にとってみることにしました。
 人のような感情を持たないアンドロイドに、人が感じるさまざまな感情を映している──、これは、山本弘の「アイの物語」などでもみかけた現象なのですが、菅の場合、それを意識的に行なっているようで、人為らざるものや、自分の合わせ鏡のような対象に、自分自身の感情を映し出し、浮き彫りにしています。
 ファンタジーめいた作品でありながら、そこに何かが潜んでいるかのような奥深さがあり、楽しめました。なかなかの良作揃いです。

 この後は、同じく菅浩江の「プリズムの瞳」を読みます。
 その後は、読みかけの河野哲也著「暴走する脳科学 哲学・倫理学からの批判的検討」、そして、大野和基著「代理出産 生殖ビジネスと命の尊厳」を読みます。その後は未定となっています。
 しかし、Amazonのカートにはすでに何冊か……。(^_^;)

2011年10月4日火曜日

ヴィクトリア朝の人たちとガンダム世代

 コニー・ウィルス著「犬は勘定に入れません あるいはヴィクトリア朝花瓶の謎」、読了です。
 たしか、発刊された翌年くらいに購入した本です。何かの続編ということで、積ん読のまま放置していました。それが、最近、山本弘の本などで紹介されていましたので、書棚の奥から引っぱり出して読んでみることになりました。
 本編はラブコメタイムトラベルSFであり、とても楽しい作品でした。「ドゥームディー・ブック」の姉妹編にあたるらしいのですが、直接の続編ではないので、この作品単体でも十分楽しめます。
 で、今回は、例によって本編とはまったく関係ない話を。(^_^;)
 ヴィクトリア朝の人たちというのは、現実にはどうだったのか知りませんが、本の中で話言葉にやたらと詩や小説を引用します。
 「犬は勘定に入れません」では、テレンスが、テニスンの詩やルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」、シェークスピアなどをやたらと引用しまくります。遠く離れたカナダでも、「赤毛のアン」のアン・シャーリーは、テニスンやシェークスピアを引用し、果ては、テニスンの詩を真似て、自分でボートに横たわったまま川を下り、あやうくおぼれかけてしまいます。
 この、話の合間にやたらと何かを引用したがる人たちというのは、僕の周囲にもじつはたくさんいて、それがどういう人たちなのかというと、みんな「エヴァンゲリオン」や「ガンダム」で育った世代の人たちなのですよね。
 職場の設備(3号機)が調子悪くなると、「エヴァ三号機、現時刻をもって破棄!」と叫んだり、新しい器具が導入されると、「見せてもらおうか。連邦のなんちゃらの性能とやらを」とつぶやいたり。
 ガンダム世代(エヴァ世代)には、ガンダム世代共通のコンテクストが存在していて、それが強烈に作用するので、例えば、古い機器を勧めるようなヤツには、「お父さん、酸素欠乏症で頭が……」と指摘して、その台詞のコンテクストを通じて背景にある共通した意味性を感じることができます。
 この、ガンダム世代共通のコンテクストと、ヴィクトリア朝の英国人がシェクスピアやテニスンから得ていたコンテクストは、同じ種類のモノであり、アン・シャーリーがランスロットの声によって悲劇の姫となったシャーロットを真似たように、僕たちもまた、シャア・アズナブルを演じ、「認めたくないものだな。若さ故のなんちゃらかんちゃら」と言い、「坊やだからさ」とツッコミます。
 こうやって考えると、あの、気持ちの悪いヴィクトリア朝時代の会話にも、少しは共感できるのではないでしょうか?(^_^;)

2011年9月15日木曜日

完璧な主人公

 山本弘著「詩羽のいる街」、読了です。
 山本弘はSF作家だという先入観からか、主人公の詩羽を、途中までずっとアンドロイドだと思っていました。(^_^;)
 でも、詩羽から受ける印象というのは、もしかすると「アンドロイドのようだ」で正しいのかもしれません。それほど彼女の思考が論理的で、埋めるべきパズルの形状を探し出す能力が、とても人間とは思えなえなかったからです。
 売買の仲介をした場合、その仲介者が経費以上の金銭を得る(これが利益)というのが、普通の人間の行いです。利益を得ることによって、人は自分の時間を持つことが可能になり、安心を得ます。詩羽も、ポイントを得ることで、仲介の対価は得ているようですが、それが等価交換、というか、物々交換のようになっていて、経済的には利益を得ていません。ただし、詩羽はそのかわりに、人の関係を築いて、その関係を利用して(共生関係)生きています。
 たぶん、普通の人間であれば体力的にも精神的も辛いであろう生活を難なく乗り切り、人心を掌握し、人のネットワークを記憶し、欠けたパズルのピースをピタリと当てはめていく詩羽は、僕にとって人ではなく、高度な演算を一瞬で終わらせてしまうコンピュータのように思えてしまうのですよね。
 「アイの物語」のアイビス(まさに彼女はアンドロイド!)と共通するような詩羽の思想は、たぶん山本弘自身の思想なのだろうと思います。多くの人が、このような論理的な思考が可能で、善意に満ちていれば、福島原発事故への人々の対応ももっと違ったものになっていたのでしょう。この事故では、風評に翻弄される人々が世界中にいるという事実をあらためて実感しました。山本は、このように論理的ではなく、感情で突っ走ってしまうような人々にあふれたこの世界へ、作品を通して挑戦しているかのようでもあります。

 ただ……、「いい話」だったのですが、うまく行きすぎな気もします。山本弘の理想は、こうなのかもしれませんが……。

2011年9月4日日曜日

アイデアは面白いのだけど

 野尻抱介著「ロケットガール4 魔法使いとランデブー」、発売されて四年目にしてようやく読了です。買い逃してしまった文庫本で、古本で買おうとする値段が高くて買えなかったのが、久しぶりに探してみたら千円以下になっていましたので、即購入です。
 で、野尻さん、ここで「はやぶさ」ネタを書いていたのですね。どうしてこの人が「はやぶさ」ネタを書かないのかと思ってました……。
 野尻の小説は、良くも悪くもSFというジャンル小説の極みのような位置づけであり、その内容というのが決して文学的ではないところに、良さがあると思うのです。(ああ、すいません、こんなこと書いて!w)
 ただ、なぜか最近その文学的ではない部分に物足りなさを感じているのも、正直な感想です。
 久しぶりに野尻の本を読んでみようと思ったのは、SFマガジン20011/8月号で「初音ミク」の特集をやっていて、その雑誌で知った野尻の2008星雲賞受賞作品「南極点のピアピア動画」を読んだのがきっかけなのですが、その作品も、少し物足りなかったのですよね。
 ハードSF的に、アイデアとしては面白いと思うのですが、アイデアだけで終わってしまっているような気もしています。ロケットガール4の中編「魔法使いとランデブー」にしても、ゆかりとマツリが、スキンタイト宇宙服だけで大気圏突入してしまうのは、向井さんの説明で予測できてしまうのですよね。で、予測通りの物語を読まされるから、たとえその行動がとんでもないことであっても退屈です。もう一捻り欲しいところです。
 ハードSFといえども、物語の面白さは必要です。小説なので……。(^_^;)

2011年9月1日木曜日

特撮を知らないと損をする一例

 山本弘著「地球移動作戦 上下」、読了です。
 地球を移動させるためだけに書かれた小説ですね。(^_^;)
 SF的な大仕掛けや考証は楽しそうなのですが、物語としては少しつまらないなぁ。「妖星ゴラス」へのオマージュだそうで、僕は「妖星ゴラス」を知らなかったため、単純に普通のSFとして読んでしまったわけなのです。つまり、「妖星ゴラス」を知らない人間は読んじゃダメってことなのでしょうね。
 山本の作品には必ずトンデモを唱える個人や団体が登場し、書き手として山本は、自身が合理的な考え方である立場からその非合理さを暴き、糾弾しようとする姿勢がうかがえます。山本の合理さには善意や優しさも含まれていて、その思想が作品の中で開花したのが「アイの物語」なのだろうと思います。
 今回の「地球移動作戦」も、地球に接近するミラーマターでできた天体など存在しないなどとする団体やいくつかの宗教団体が登場し、事実をねじ曲げ、自分たちの主張を押しつけます。これに対する山本の善意とは、科学的な知識であり合理性です。こうやって書くと、山本の作品って、なんだか社会科学の人と自然科学の人の対立を描くJP・ホーガンの作品じみていますね。w
 こういった善悪の二極化のような現象が起ってしまって、それがこの作品の面白さを多少スポイルしているような気がしています。その二極化の中の、グレーゾーンのようなところにいたジェノアPが、テロリストの計画を未然に防いだり、設定年齢を低くして主人公の魅波ともっと絡めたり、もう少し物語を牽引してもよかったんじゃないでしょうか。
 たとえば、映画「セカンド・アース」を制作したとき、ジェノアPはまだ子供だったということに変更し、魅波と同世代にして、過去の遺恨を乗り越え、恋愛関係に進展。このふたりをくっつけてもよかったかも!w パーソナリティのよくわからないシリンクスのような女が相手よりは、面白そうな気がします。っていうか、魅波がシリンクスのどこを好きと思っているのかも、よくわからないんですよね。(^_^;)

 いやいや、違う。
 この小説の楽しさは、そんなところにあるのでなくて、あくまで「妖星ゴラス」へのオマージュだというところにあるのでした。忘れるところだったよ。(^_^;)

2011年8月25日木曜日

中世ドイツの異星人

 マイクル・フリン著「異星人の郷」、読了です。
 今年の一月に読み始めた長編SF、マイクル・フリンの「異星人の郷」をようやく読み終えました。
 途中、なぜ放り出したのかというと、中世のドイツの描写があまりに長々しく続いて退屈だったというのが最大の理由だったのです。
 お盆休みを利用した読書計画の中で、あれもこれもと詰め込んでいたら、「そう言えばマイクル・フリンのあの作品を未読のままだった!」と思いだし、急遽その読書計画の中に詰め込んで、ようやく読了となりました。
 これは……。やはり、退屈だ……。(ああ、すいません。この著書のファンの方、そう怒らないでください!)
 というか、たぶん、この著書のファンの方は、この作品が地味で退屈であることは十分承知していて、その退屈さがこの作品のいいところだと主張されているのだろう思います。そして、僕のようにこの作品に否定的な読者を、「こいつは、わかってねぇよな」と見下せるほどの読書経験をお持ちの人たちであろうということも想像できます。
 でも……。
 でも、あえて言わせてもらいたい!

 この作品は退屈だ!!(^_^;)

 全体として、マイクル・フリンの趣味に付き合わされたように感じます。彼が描きたかったのが中世のドイツであり、その時代に生きる人々の生活様式や道徳や思想だったのは明らかであり(あるいは、そういったものと現代的なものとのギャップ)、そこに宇宙人を登場させたのは、当時の彼らがそのような存在に出会い、どのような行動をとるのか?と言った仮想的で壮大な思考実験だったように思えます。
 付き合わされたこっちとしては、彼の壮大な暇つぶしに付き合わされたような気もします。
 かなりな力作で労作であることは認めますが、個人的には微妙でした。

2011年8月19日金曜日

あなたのための物語

 長谷敏司著「あなたのための物語」、読了です。
 SFマガジン編集部編「2010年版 SFが読みたい!」において、ベストSF2009国内第二位だったので、読んでみました。(ちなみに、第一位は伊藤計劃著「ハーモニー」)
 作品のテーマが「死」であるだけに、全編を通して重苦しく、痛みをえぐるような文章で綴られています。僕は、長谷敏司という作家の作品を読んだことが無く、なんの先入観もなく読み始めたわけなのですが、SFマガジンの評価ほどに高得点ではなかったのです。
 長谷の死に対する心象が、僕とは大きく食い違うからなのかもしれません。
 例えば……。
 抜粋します。

──ここから──

 死は、人間が言語を使いはじめて文化の歩みを進める中、常に無為であり続けた。そして今後も無為な断絶であり続ける。

──ここまで──(ハヤカワ文庫JA 長谷敏司著「あなたのための物語」5ページ)

 小説の冒頭から、長谷は死についてこう述べています。「無為」がどういう意味で使われているのか、少し分かりづらいのですが、仮に、何もしないで放っておいた、という意味であるなら、人類の病気との格闘や延命処置の技術向上はいったい何なんだ!と問いたいですね。決して、人類は死を無為にやり過ごしてはいません。
 たしかに、最終的に人間の全てが死んでしまうと言う現実からは逃れられてはいませんが、「無為」である、とは思わないのですよね。脳死などは、明らかに「作為的な死」だと思うのです。
 物語が冗長で、何度も同じ文章を読まされたあげくに、そう大した話ではなかったような気がします。
 冗長な文章もあって、例えば。

──ここから──

 動機が、動いている物体が外力を加えられない限り動き続ける、慣性力に似ているように思えた。

──ここまで──(同作品338ページ)

 いや、そこは、簡単に「動機が、慣性力に似ているように思えた」でいいでしょ!(^_^;)
 頭の中で意味を考え、文章を再構成しながら読んでいったので、かなり時間がかかりました。苦労した……。(^_^;)

2011年7月31日日曜日

人形と少女

 川原由美子原作「観用少女 プランツ・ドール 完全版 全三巻」、読了です。
 一方的に客から選ばれるのではなく、観用少女側から持ち主を選択できるという設定が面白いですね。選択の主導権は、あくまで少女側にあり、こちら(客)にはありません。観用少女には選り好みがあり、客が男性であろうと女性であろうと、一方的に観用少女を選択することはできません。
 この観用少女の選好性は、あたかも現実の少女たちの選好性のようであり、愛玩したい対象としての少女であるにも関わらず、その愛情を受け入れてくれない、主体性を持った人間の少女のようです。男性にとっても女性にとってもそれは同じで、だから、観用少女は、同性である女性ですら、気に入らなければ目を覚ましません。女性にとっても、未成熟で可愛い少女は、愛玩したい対象であるようで、その気持ちを男性以上にストレートに表現できる彼女たちの間に、人形遊びという文化は広がっていったのでしょう。しかし、一方的に選択し愛でていた対象から、逆に拒絶されることもあるというのは、女性にとっても辛いことのようです。
 その観用少女も、快楽に溺れたり悲しみを経験したりすることによって大人になり、人間の男性と結ばれます。しかしそれは、逆に言えば成熟する以前の少女は、ほぼ人形(観用少女)に等しい存在であるかのようです。好奇の視線に晒され、暴力的な妄想の矢面に立たされ、愛玩動物のように愛でられる客体としての少女が観用少女であり、大人から見た客体としての少女とは、男性にとっても女性にとっても人形のようなものなのかもしれません。その客体と、客体自体が持つ主観のせめぎ合いが、現実の世界では繰り広げられていて、観用少女が選好性を持っていることは、そのせめぎ合いの暗喩のような気がしました。
 面白かったですね。

2011年7月30日土曜日

生存、戦略ぅぅぅぅっ!

 「異国迷路のクロワーゼ」と「輪るピングドラム」を観ています。
 今期は、他に「神様ドォルズ」や「神様のメモ帳」、「猫神やおよろず」(なぜか神様がタイトルに付く作品ばかり)などを観ていますが、特に、前述した二作品は注目しています。
 「異国迷路のクロワーゼ」は、日本人女性である湯音がフランスの看板屋さんに奉公に出る話。そして、「輪るピングドラム」は、不治の病に冒された妹が一度死に、謎の宇宙人(?)の力を借りて蘇り、妹を溺愛する兄弟が、宇宙人の命じるままにピングドラムを探し回る、というお話しです。
 こうやって書いただけでも、「異国迷路」の方はわかりやすい話なのに対して、「輪るピングドラム」の方はどんな話なのか想像がつきにくいのではないかと思います。そして、この二作品、じつは「美少女戦士セーラームーン」を手がけたふたりが、それぞれ監督をしています。今から思えば、こんなに個性の違うふたりが、よく同じ作品を監督できたと思います。
 「異国迷路のクロワーゼ」が、「おジャ魔女どれみ」、「ふしぎ星の☆ふたご姫」の佐藤順一。「輪るピングドラム」が、あの伝説のアニメ「少女革命ウテナ」を手がけた幾原邦彦です。
 佐藤順一作品の傾向として、登場人物が基本的に「よい子」である、といった特徴があると思います。そのため、女児向けの作品を手がけると非常に巧く、大人向けの作品を手がけると「癒される」作品を生みます。
 一方、幾原邦彦は、女の子の可愛い部分だけではなく、心の底にある欲望や憎悪、嫉妬や妬みといったどす黒い感情まで描いてしまいます。ちなみに「輪るピングドラム」の二話では、荻野目苹果は、多蕗桂樹の家の床下にまで侵入してストーカーしていました。w
 い、いや、そんな女いねぇだろ……。 (^_^;)
 この突拍子もない展開、わけわからん演出(失礼w)、まさにこれぞ幾原作品といったアニメです。「輪るピングドラム」は……。
 湯音の健気さ、そして彼女を取り巻くパリの人々の、心の温かさをたぶん描くであろう「異国迷路のクロワーゼ」も楽しみですが、久しぶりの幾原邦彦監督作品にも注目です。「少女革命ウテナ」以上に突っ走って欲しいものです。

2011年7月26日火曜日

久々のコミック、テーマは「人形愛」

 川原由美子原作「観用少女」と、鬼頭莫宏原作「ヴァンデミエールの翼」を平行して読んでいます。
 この二作品、テーマは人形愛です。
 小川一水の「天冥の標」に登場する<恋人たち(ラバーズ)、そしてパオロ・バチガルピ著の「ねじまき少女」に登場したエミコ、山本弘の「アイの物語」に登場した詩音やアイビス。彼女たちは人から愛され、ときには性愛の対象ともなります。近頃読んだSFに多く登場したこれらの人形に対して、人が抱いてしまう愛情や劣情を、もう少し自分なりに掘り下げてみたくなりました。
 この二冊は、下記URLの「ロリータ治療塔」で紹介されていたコミックであり、その内容が、ロリコンというよりは人形愛のようにも思えたので、読んでみることになりました。

ロリータ治療塔
http://www006.upp.so-net.ne.jp/handa-m/index.htm

 「観用少女」本作は、美しい姿をした少女人形に心を奪われる人たちを描いています。若い男も中年の親父も、働く女性も幼い少女も、この人の形をした生き人形を愛してしまいます。
 上記URLページにも、掲示板には女性が参加し、自ら少女愛という性的な嗜好をカミングアウトしています。ロリコンというか、少女の形をした一見ヒトのように見える物体は、男女問わず、心惹かれる存在であるようです。
 では、なぜそうなのか?
 中世のヨーロッパ。女性は一二、三歳で結婚し、一六歳ともなれば早くも寡婦であったという事実は、権力ある結婚可能な大半の男が幼い女性を好んでいたということです。また、上記URLでも、ロリータの定義を「9歳から14歳まで。個人差はあるものの、上限 はどんなに譲っても15歳まででしょう。」としています。また、日本人男性の性的嗜好は、「美しい」よりも「可愛い」が選好性の上位にあるようです。そこには、「幼い」という意味合いも含まれます。例え、成熟した女性であっても、男性はその女性の中に「可愛い」や「幼い」を見いだそうとします。
 そして、僕にとっては永遠の謎である「女性の中の少女観」のようなものに触れられる「観用少女」は、とても興味深い作品です。

 ただ、少しツッコミも──。
 観用少女と呼ばれる生き人形は、気に入ったお客が来ると目覚めます。そして、目覚めれば、何らかのメンテナンスなしには、別のお客に懐かない、という設定になっているようです。観用少女を売っているお店の店主が、そう言っています。
 ところが、観用少女は何度かこの設定を無視してしまっています。もしかして、観用少女のお店の店主は、観用少女に気に入られた客に確実に売るために、ウソを言っているのでしょうか? (^_^;)
 一度目覚めた観用少女は、他のお客様には懐かない──、それ、本当なのですか?

2011年7月18日月曜日

アンドロイドは夢をみるのか?

 山本弘著「アイの物語」、読了です。
 物語とは?という問いかけが、そのまま「ヒトとは何か?」という問いかけに置き換えられています。アンドロイドに物語を語らせながら、山本は物語の中で物語論を展開し、それはじつはヒトについての話であるという結末にたどり着きます。そして物語全体が終わりを告げたときに、ヒトとは何か、その回答の一つが示されます。とても面白い体験でした。
 アンドロイドという「他者」に対して、ヒトが投影する意識は、その投影するヒト自身の意識が映った鏡のようものです。他者の中に善意を見いだすか悪意を見いだすかは、アンドロイドに投影するヒトの意識次第なのかもしれません。
 「となりのアンドロイド」で黒崎政夫が述べたように、アンドロイドが自発的な意志を持つようになることは、非常に難しいだろうと思います。しかし、僕は不可能だとは思っていません。そうやって、いつしか自発的な意志を持ったアンドロイドが生まれるならば、ヒトとアンドロイドとの境界は、もしかすると山本弘が述べるように、「夢をみること」なのかもしれません。ただ……。自発的な意志を持ったアンドロイドが「夢をみない」というのは違和感があります。何らかの自発的な希望や願望がなければ、自発的であるはずはないと思われますので。すると、アンドロイドも夢をみる(ああ、なんかディックの小説のタイトルみたいだ!)わけで、ますますヒトとの境界はあやふやになっていきそうです。これを突き詰めていけば、アンドロイドが限りなくヒトに近づき、もはやヒトと区別がつかず、ヒトがそのような他者に向かって自発的な意志を感じるのであれば、そのような他者は、完全な「ヒト」なのではないか?という気もしてくるのです。結局、ヒトは同種のホモ・サピエンスの中にだけに、ヒトと同じような自発的な意志と心を感じています。ヒトの自発的な行動と、犬の自発的な行動が違えば、そこには理解を隔てる壁が築かれるように。
 ブログなどにある山本弘の言動はあまり好きではないのですが、この作品は好感が持てました。「ヒトは全て認知症である」はよかったですね。たしかに、アンドロイドからみればそうかもしれません。できれば、社会全体が、あるいは全てのヒトが、この物語のように善良で合理的であればいいのですが。
 少し不満があるとすれば、少子化の説明が不十分だったこと。なぜヒトが少子化してしまうのかを、もう少し掘り下げて欲しかったですね。しかも、社会学的ではなく、生物学的な理由を模索して欲しかったと思います。

2011年7月4日月曜日

時の娘

 中村融編「時の娘」を読んでいます。様々な作家のロマンチックな時間SFを集めたアンソロジーです。
 ウィリアム・M・リー著「チャリティのことづて」と、デーモン・ナイト著「むかしをいまに」を読了です。
 「チャリティのことづて」は、西暦1700年と1965年に暮らす男女が知り合って恋に落ちるというお話しです。それぞれ、肉体的には触れ合えませんが、会話や料理の味、匂いなどは共有できたようです。1700年に暮らすチャリティは、1965年に暮らすピーターから聞いた、あるいは一緒に体験したことを、1700年に暮らす友人に打ち明けたところ、魔女の疑いをかけられてしまいます。
 そこで、ピーターは、チャリティを救うために、街の歴史を調べ、チャリティを裁く予定の治安判事ジョーナス・ハッカーがじつは殺人犯であったことを突きとめます。
 チャリティは裁判で、殺人を千里眼の能力で見たと匂わし、死体が埋めてある場所は地下室であり、証拠の品もそのすぐそばに埋めてあると証言します。
 これ、じつは治安判事ジョーナス・ハッカーの家の地下室なのですが、自分が犯人であることを明かされることを恐れたハッカーは、チャリティを無罪放免します。
 で、めでたし、めでたし──、なのですが、僕は心配です。
 ハッカーがこの後死体を焼却処分し、その他の証拠隠滅を図れば、1965年においてピーターが、ハッカーが殺人犯であることを知る術がなくなってしまいます。すると、哀れ、チャリティは魔女の汚名を着せられたまま絞首刑か火あぶりに……。
 ここでも、見事にパラドックスが成立していますね。
 デーモン・ナイト著「むかしをいまに」は、時間が逆行していく世界のお話しです。死んだ瞬間が、生まれた瞬間であり、ひげそりを当てることでひげが生え剃り、友人とテーブルに座ってビールを吐き出しながら会話をします。ビデオテープを逆回ししているように物語は進んでいき(?)、やがて主人公は子供時代まで成長(?)して、そしてようやく自分の母親に出会います。
 せつないような、それでいてどこかユーモラスで、でも時間というものについて、少し考えさせられるようなお話しです。「失った過去」などといった時間の感覚は、それを主観的に捉えている人間が勝手に生み出したもので、この世界がたまたまそういう分子や原子の状態であっただけであり、僕達がそれを「時間の経過」と感じるのは、その分子や原子が同じ状態に戻れる確率がほぼゼロに近いからなのだろうか、などと想像してみました。熱力学的平衡に達した系では、時間の経過という概念がなくなってしまうように、僕達の暮らしている世界は、局所的に熱力学的落差が生じていて、たまたま、その落差が作り出した流動の中に、僕達は時間を感じているのではないかと……。
 そう考えれば、時間の進行も逆行も、そう意味のあることではなく、自分の子供時代も現在も、同じ時間の中の、違った分子や原子の状態であり、失った過去などいうものは、もしかしたら、僕のすぐ隣にある原子が演出していた状態なのかもしれないなぁ、と。
 いや、ガラにもなく、そんなことを考えてしまいました。

2011年7月3日日曜日

迷彩服に身を包んだ老淑女

 黒崎政男著「となりのアンドロイド」、読了です。
 気まぐれに、哲学者黒崎政男の本を読んでみました。
 アンドロイドを作るということは、人を知るということだ──、それは、哲学者であろうと工学者であろうと同じことだと思うのですが、人とは何かを問い続けた長い歴史を持つ哲学からのアンドロイド考察は、より人の持つ深みについて理解しているように思われます。そのためか、黒崎はアンドロイドの中の知能や自由意志については悲観的です。ただ、人も、物質から作られたものです。その物質が、知能や意識を組み上げることが可能だということは、アンドロイドの中の知能や自我に類似した何かは、これからのAI研究の中で作られていくであろうと、僕は予測しています。それは、同時に哲学的な人の理解の変化も伴うだろうと予測できます。

 そして現在、モンゴメリ著「アンの友達 赤毛のアン・シリーズ4」を読んでいます。
 これまでの長編とは違い、アンの周囲の人たちを描いた短編集となっています。その中の「ロイド老淑女」を取り上げてみたいと思います。
 老淑女マーガレット・ロイドは、スペンサーヴェルの新米の音楽教師が、シルヴィア・グレイという名の娘であることを知ります。
 シルヴィア・グレイというのは、老淑女が若い頃に恋をしたレスリー・グレイの娘で、ロイド老淑女は、シルヴィアに喜んでもらうと、森の中で様々な贈り物をします。
 そして、シルヴィアの喜ぶ顔がみたいばかりに、こっそりとえぞ松の陰から、ロイド老淑女はシルヴィアを窺うのです。
 少し、抜粋します。

──ここから──

 それがすむと、老淑女はそろそろとえぞ松の茂みのうしろにかくれた。身をかくすために濃緑色の絹の服をまとっていた。

──ここまで──(新潮文庫 モンゴメリ著 村岡花子訳「アンの友達」42頁より)

 おまえは、ランボーか! (^_^;)
 顔にも、迷彩色を塗ってそうですね。
 これでサバイバルナイフでも持っていたら、シルヴィアは背後から忍び寄ってきたロイド老淑女に、喉を掻き切られそうです。w
 いや、実際は、なかなか可愛いお話しでした。(茶化してすいません)

2011年7月2日土曜日

14世紀のドイツは宇宙人がいっぱい

 パオロ・バチガルピ著「ねじまき少女」上巻下巻、読了です。
 ん~、これ、どう評価しよう……。(^_^;)
 微妙だ。w
 本当に、この作品は海外で賞を総なめにしたのでしょうか?
 ハヤカワ文庫の帯に書いてある煽り文句にも、少し違和感があります。

グレッグ・イーガン、テッド・チャンを超える リアルなビジョンを提示した新時代のエコSF

 グレッグ・イーガンやテッド・チャンは、リアルなビジョンを提示したから面白かったわけではなく、作品が暗喩的だったから面白かったと思うのです。そんな暗喩的な作品のリアリズムの部分を超えたからといって、何を驚くようなことがあるのかと……?
 しかも、僕はこの作品にリアルなビジョンを感じないのですよね。
 この作品の何がいいのか、具体的に説明できる方、僕にぜひその面白さを教えていただきたい!

 続けて……。
 小川一水著「風の邦 星の渚 レーズスフェント興亡記」上巻下巻、読了です。
 一気に読了です。
 舞台が14世紀のドイツということで、どうしてもマイクル・フリン著「異星人の郷」と比較してしまいます。その時代の、その土地の、あるいは人々の、描写における詳細さについては、マイクル・フリンの作品の方に分があるようです。しかし、一水は、一水らしい(というか、日本人ウケする)軽妙で楽しい物語を紡いでいます。楽観的とも言えるルドガーの行動も、アニメ的でいいですね。レーズのような地球外知的生命体が味方についていなければ、彼は何度死んでいたでしょうか!w
 キリスト教による西洋的な思想の影響が少ない日本人だからこそ書けた、そんな作品だと思います。
 「ねじまき少女」に登場する性愛の奉仕をするアンドロイド・エミコと、「天冥の標」に登場する<恋人たち(ラバーズ)>を比較してみても、「ねじまき少女」が、最期まで、性愛の奉仕をするような行動を軽蔑すべき行動であるとみなし、エミコにそのような行為を忌避させようとしていますが、「天冥の標」は、性愛の奉仕をするような行為について肯定的に描いています。これは、倫理的には非常にリベラルな考え方で、何らかの思想や宗教観の影響からはほど遠い思考なのではないかと思うわけです。
 セックスを求めている人たちに対して、そのようなサービスを与えることがなぜ忌避されなければならないのか?あるいは、軽蔑されなければならないのか?
 子供も生めないアンドロイドなら、べつに何したっていいじゃん!という問題ではありません。こういった倫理観が、生得的なのか学習によるものなのかも興味あるところです。社会的なほ乳類である人類は、なぜ性愛的な娯楽を蔑んでしまうのでしょうか。
 これは僕の個人的な印象なのですが、人形や二次元キャラに夢中になる人たちに嫌悪感を抱くような感情と、性愛の奉仕をするようなアンドロイドを蔑む人たちの感情は、似ているのではないか、と思っています。嫌悪感の度合いによって、あるいは許容する度合いによって、その人がどれほどリベラルであるのかを知る目安になり得ると思うのです。
 僕は、キリスト教などによる西洋的な思想に影響を受けなくて、本当に良かったと思っています。そうすると、一水の作品が面白く感じなかった可能性もあるわけですので(あと、アニメも)……。(^_^;)

 これからの読書計画です。
 モンゴメリ著「アンの友達 赤毛のアン・シリーズ4」と「アンの幸福 赤毛のアン・シリーズ5」。
 小川一水著「導きの星 1~4」。僕は、一水のこの代表作を読んでいないことに気付きました。
 「ここがウィネトカなら、きみはジュディ 時間SF傑作選」。
 「時の娘 ロマンティック時間SF傑作選」。時間SFが二冊続きます。
 山本弘著「アイの物語」。ここ数年、SFをあまり読んでいなかったので、今年はできるだけ多く読みたいと思っています。
 そして、桜庭一樹著「GOSICK VIII上‐ゴシック・神々の黄昏‐」です。
 読む順番は決めていませんが「GOSICK VIII」は、下巻が出てからまとめて読むかもしれません。ヴィクトリカと一弥くんには、ぜひ幸せになって欲しいですね。

2011年6月29日水曜日

ダブルスタンダードな少女

 ルーシー・モード・モンゴメリ著「アンの愛情 赤毛のアン・シリーズ3」、読了です。
 自分のそばかすだらけの顔や赤毛といった容貌を、他人から評価されることをアンは嫌う一方で、チャーリー・スローンの顔を出目金のようだと評価します。男性とのロマンチックな出会いの要素のひとつとして、男性側にも容貌の美しさを求めています。この無邪気で他愛のないダブルスタンダードな残酷さこそ、少女らしさなのかもしれません。そこに萌えない男は、男じゃない!(^_^;)
 この「アンの愛情」で、ようやくアンはギルバートへの自分の気持ちを認めるわけなのですが、ギルバートと同性である僕にとって、このギルバートという男がそれほど魅力ある男とは思えないのですよね。こんなつまらん男と一緒になるくらいなら、少年であるポール・アーヴィングの童貞を年上のお姉さんであるアンが無理矢理奪ってしまって……。いや、これはすでに少女小説ではありませんね。失礼しました。(^_^;)

 現在、手元には「赤毛のアン」のシリーズが「5」の「アンの幸福」まで用意しています。ですが、その前にSFを数冊読みます。パオロ・バチガルピ著「ねじまき少女」の上巻下巻、そして小川一水著「風の邦星の渚 [レーズスフェント興亡記]」上巻下巻です。
 その中で、パオロ・バチガルピ著「ねじまき少女」上巻をすでに読み始めています。僕にとっては鬼門である海外SFですね。w
 化石燃料代が高騰し、何種類かの病原菌の蔓延によって、社会構造が変わってしまった未来を描いているようです。しかし……。天井の換気ファンをしばらく回し続けるようなゼンマイを巻き上げるのに、いったいどのくらいのエネルギーを要すのでしょうか。ここにもエネルギー保存則が適用されるので、このゼンマイを巻くために、その人間は、一定期間換気ファンを回し続けるだけのエネルギーをゼンマイに与えなければなりません。
 これ、人がゼンマイを巻くのではなく、巻き上げられたゼンマイが仕事を終えた場合、使用後のゼンマイをメーカーに返し、新たに巻き上げられたゼンマイを買うようなシステムの方があり得ると思うのです。そして、そのゼンマイを巻き上げるために必要だったカロリー(食料代)や、ゼンマイを巻き上げる動物を飼うための経費などによって価格が決定します。ゼンマイ本体はレンタル商品であるわけです。使用済の乾電池をメーカーに返し、充電済の乾電池を新たに買うようなものです。こっちの方があり得ると思うのですが、どうでしょう?
 あと、日本語が少し変。~を~をと続いたり、句読点がまったくなかったり……。
 その他、少し抜粋します。

──ここから──

ヤオラワットのスラム街から外へ出る道は、あちこちに物陰やしゃがみこむ人だらけだ。

──ここまで──(ハヤカワ文庫 パオロ・バチガルビ著 田中一江・金子浩訳「ねじまき少女 上」154頁)

 これって、原文でもこうなっているのでしょうか?だとすると、翻訳家のミスではないですよね。
 あと、タイトルになっているねじまき少女は、性奉仕をする遺伝子操作された新人類です。あたかも一水の「天冥の標」に登場する<恋人たち(ラバーズ)>のようです。ですので、この二作品におけるそれぞれの「性奉仕する人形」を、無意識にも比較してしまいます。これは、読了後に比較して見たいと思います。あと、ねじまき少女が日本製というのも興味深いですね。日本人はたぶん、誰でもこういうものを求めていると、僕も思っていますので──。

2011年6月16日木曜日

エロいSF

 小川一水著「天冥の標IV 機械じかけの子息たち」、読了です。
 最初から最後まで、エロいです。(^_^;)
 でも、考えてみれば、「メニー・メニー・シープ」から一貫して「天冥の標」の根底にあるものは、人の情動のようなもので、「メニー・メニー・シープ」ではエランカがラドスに欲情し、「救世群」では圭伍が千茅の幼い乳房に触れ、「アウレーリア一統」では、アダムスがミクマックのたくましい体に抱かれたいと感じました。小川は、人のそういった情動を描こうとしているかのようです。何が彼らをそのように突き動かすのかはわかりませんが、ときに、情熱的な性衝動に突き動かされてしまうものなのですね、人というのは……。そういう意味では、人はまったくの文化的な存在ではなく、動物的な側面を色濃く残している生き物なのでしょう。「機械じかけの子息たち」を読みながら、そんなことを考えてしまいました。
 性愛を描いたSFはいくつか読んだことがありますが、これほど真正面から性愛を取り上げ、哲学的にも楽しい作品は珍しいのではないでしょうか。人が、繁殖というくびきから解放された性愛を身につけ、娯楽としての性戯を楽しみ謳歌しながら、そこに罪悪や軽蔑、そして羞恥を感じるのはなぜなのだろう、といったような背反するいくつかの感情について議論しています。果たして、繁殖を伴わない性愛は、社会的に、あるいは倫理的(生物学的にではなく)には正しい行いなのでしょうか、それとも間違った行為なのでしょうか?

 時間軸的に「アウレーリア一統」の直後の話であることがわかります。そのためか「天冥の標シリーズ」としての物語展開はそれほど進行していないように思います。
 「天冥の標シリーズ」の中で、<恋人たち(ラバーズ)>がどういう立場にあるのか?や、ダダーの目的など、不明なことが多すぎて今後の展開がまったく読めません。今後の展開に期待します。

2011年6月10日金曜日

性愛についての考察

 小川一水著「天冥の標IV 機械じかけの子息たち」を読んでいます。
 性愛の奉仕をもって人に尽くすアンドロイドたちの話ですので、全編、性愛に関するテーマに満ちています。しかも、それが繁殖を目的とするための性愛ではなく、快楽を得ようとするための性愛に重点が置かれているため、より直接的にセックスについて描かれています。
 ヒトのセックスは、霊長類の中でも特にコミュニケーション的な意味合いが強く、繁殖という目的の他にも、重要な役目を担っているようです。そう言う意味でも、男女、あるいは男と男、あるいは女と女、あるいは複数の男女による快楽の追求は、ヒトとしての行為であり、それが道徳的であるかないかの議論は別として、生物学的にも正しい行為であると言えます。「愛とは何だ?」という議論に一番正解を与えそうなジャンルが生物学だ、と僕は思っています。だから、小川のこの作品は、僕にとって究極のハードSFです。
 性愛やセックスに関しての哲学的な面白さは本編を読めば十分です。僕があえて書く必要もないでしょう。それ以外の話を。
 まず、主人公のキリアンのアイデンティティ・クライシスが、まるでディックの小説のように起きてしまうこと。そして、人々の快楽を求める行為が、「新世紀エヴァンゲリオン」の人類補完計画のように思えてきてしまうこと。そして、「混爾(“マージ” と読む。経緯とも、愛とも関係なく、それ自体だけで自立した、よいセックス、という意味らしい)」を探し求めるキリアンたちが、「俺の空」の安田一平に思えてしまうこと。(^_^;)
 この三つです。
 ディックの小説については、短編「にせもの」や有名な「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」で語られるような、「自分はいったい何者だったのか?」と思わせるような展開が似ていて、自分がアンドロイドであると知ったキリアンが、自らをどう認識していくのか、これからの展開が楽しみですね。
 人類補完計画との類似性はというと、人が自分の欠落した部分を補おうとした場合、補完すべきものは自分の中にある理想的な他者であり、決して他者そのものではないというようなことを思ってしまうからですね。人々がセックス中に脳内で感じている快楽は、あくまで個人的な主観であり、交わっている他者と同じような快楽を得ていると錯覚している可能性が高いということです。そう言う意味では、理想的な他者を対象として行なうセックス(これはもしかしてオナニーなのかもしれない!)というのは究極の快楽であり、「天冥の標IV 機械じかけの子息たち」で<恋人たち(ラバーズ)>と交わる人々は、他者をアンドロイドとすることで、オナニーに近い快楽を貪っているようにも思えます。伊吹マヤが人類補完計画で望んだ赤木リツコは、あくまで伊吹マヤが脳内で作り出したキャラクターでしかないというのと、同じです。
 そして、「俺の空」については、まったく僕の誤解かもしれません。
 セックス行脚の旅に出る主人公安田一平の行動と、「混爾」という理想的な快楽を求めるキリアンとアウローラのふたりのアンドロイドの行動が似ていると感じただけです。というか、僕は「俺の空」についてよく知らないので、これ以上述べるべきではないのでしょう。

2011年6月9日木曜日

ダイイングメッセージの謎

 桜庭一樹著「GOSICKs IV 冬のサクリファイス」、読了です。
 テレビ11話「そのドリルは雄弁に愛を語る」にあたるエピソードが、この外伝第一話「白の女王は君臨する」になります。
 ジャクリーヌ・ド・シニョレーは、ヴィクトリカの背中が昔飼っていたリスのキューちゃんに似ていることから、自分が殺人犯なのではないかと疑われた過去を語ります。ジャクリーヌに想いを抱いていたブロワは、腹違いの妹であるヴィクトリカに事件の解決を依頼し、結果、あのような恥ずかしい髪型(第一段階!)になってしまったわけです。
 そのエピソードに出てくるダイイングメッセージの謎なのですが、どう考えてみても無理があるんじゃないかと……。
 寝転がり、腕を伸ばした状態で書いたpという文字がqになってしまうなど、あり得るのでしょうか?たぶん、頭上に真っ直ぐ伸ばした腕でpと書けば、間違えてqと書いてしまいそうなのですが、普通に腕を伸ばして書いただけならば間違えることはないように思います。しかも、死に行く人間がペットの名前を書くかと……。警察、気付よ!(^_^;)
 いや、こんなふうに突っ込む気はなかったのですが、誰も書いている人がいないようなので、ちょっと書いてみました。鏡文字にするのであれば、胸元に手をやって、その状態で自分の胸に文字を書かせた方が良かったのではないかと思うのですがどうでしょう?
 迷路花壇の奥にある小さなおうちでひとりチェスに興じるヴィクトリカ。「チェックメイトだっ!」と叫んで知性の浪費をしています。たぶん、ひとりでチェスを打っているのでしょう。そこに勝ったヴィクトリカがいるということは、負けたヴィクトリカもいるということで、負けた方はどんなに悔しがっていることか!想像しただけで萌えてしまいます。
 さて、次巻でシリーズ最終回ということです。楽しみであり、ちょっと恐い気もしますね。

2011年6月2日木曜日

これは誰が演出したのか

 ゴールデンウィークを利用してアニメ「赤毛のアン」を観たわけなのですが、原作を読んでみると面白いことに気付きます。
 アニメの第一話。マシュウが馬車でアンをグリーンゲーブルズまで連れ帰るシーンで、アンのおしゃべりに耳を傾けるマシュウが、目ですごく演技しているのですよね。マシュウはもともと無口なので、あまりしゃべりません。ところが、その無口なはずのマシュウが、目でスゴイ演技をしているわけです。上を見たり、アンを見おろしたり、斜め上を見上げたり。
 この演出はすごいなぁ、と思って、原作ではどのように描写されているのだろうかと注目して読んでみたところ、原作にはそんな描写は一切ないのです。ただ、アンの長々としたおしゃべりと、マシュウの辿々しい受け答えだけで、マシュウが視線をさまよわせた、とか、マシュウは上を見上げて考え込んだ、などのような記述は一切ありません。
 つまり、アニメ「赤毛のアン」の演出家は、原作の行間から、マシュウのあのような表情を読み解いて演技させたわけです。しかも、その演技がピタリとあのシーンに合っていて、原作の行間の向こうで、本当にマシュウはあのような表情をしていたかのように思ってしまいます。すごい演出家です、高畑勲は……。
 リンゴの並木道を通った直後、しゃべり続けていたアンが、「まあ、クスバート(アニメではカスバート)さん!まあ、クスバートさん!!まあ、クスバートさん!!!」と叫んだまま絶句します。その様子はマシュウ目線で描かれ、「はなやかな空をよぎる美しい幻の群れを、見つめているかのようだった」とモンゴメリが補足を入れているだけで、他には一切アンの内面は描かれていません。ところが、高畑勲は、ものの見事にアンの内面世界を描き切りアニメーションで鮮やかに表現しています。
 少女小説をここまで完璧に読み解き、原作にない描写を演出し、行間の狭間を埋めるような演技を登場人物に与えることなど、簡単にできることではありません。天才ですよね。女性以上にアンの内面を知り、少女たち以上に「赤毛のアン」を理解した男(こう書くとちょっとキモイですが w)……。前回、アニメは原作に忠実だ、と書いたのですが、訂正します。アニメは原作以上にすばらしい作品だったのですね。

2011年6月1日水曜日

男の娘の活躍!

 小川一水著「天冥の標III アウレーリア一統」、読了です。
 男の娘モノではないですか、これ。w
 ド派手な外観を持つ宇宙船や小惑星。キルトスカートにタイツという出で立ちの女装少年。そして、愛し合うふたりの男性、あるいはふたりの女性。今回は、性愛に常識を持ち込まない自由奔放な人々が暮らす世界を描いています。デコレーションケーキのような外観を持つ星に住むノイジーラント大主教国の人たちは、「メニー・メニー・シープ」に登場したアクリラたちのご先祖さまですね。
 男同士の性愛を描いているのに、読んでいるこっちが全然気持ち悪くない理由は、たぶんアダムスが男の娘だからであり、僕がアニメやラノベで免疫ができているからなのでしょう。この作品、さすがラノベ出身の作家だけあって、小川のエンターテイナーとしての資質を強く感じます。「天冥の標」三作品の中では一番アニメ的ともいえるヴィジュアルを持っていて、娯楽的であり、人が大勢死にながらどことなくユーモラスですらあります。
 このユーモアの部分を演出している重要なファクターがメイドロボットのカヨなんじゃないかと思います(彼女はこの作品の中でナビゲーターに徹しているようですが)。重要なところで機能停止したり、フェオドールにとって苦手な存在であったりします。人型だからと「気をつけ」を強要され、イシスに艦を乗っ取られたときには機器扱いで死んだふりをしてブリッジに残りました。美味しいところを持っていきますね。
 往年のスペオペを思わせる世界観とストーリー、そしてアニメ的なヴィジュアル。しかし、それ以上に、背景に感じるハードSFとしての作品性。すごいですね。

 今後の読書計画です。
 「天冥の標」シリーズは「機械じかけの子息たち」が出ているようなので、このまま続けて読みます。次に桜庭一樹著「GosicksIV 冬のサクリファイス」を読んで、その次がいよいよモンゴメリの「赤毛のアン」シリーズです。
 「赤毛のアン」シリーズは、なるべくアニメに近い翻訳ということで新潮文庫版をチョイスしてみました。根拠はないのですが、「白いクリスマス」といった今では使わないような言葉をアニメで使っていたので、たぶん翻訳も古い方がいいかと思いまして。
 「機械じかけの子息たち」と「GosicksIV 冬のサクリファイス」がまだ手元に届いていないため、先に「赤毛のアン」の冒頭部分を読み始めています。といっても、もう一五〇ページ以上読んでしまいましたが(^_^;)、二、三ページ平気で続くアンのおしゃべりやアヴォンリーの描写、アンの情感豊かなそれでいてどこかユーモラスな空想など、アニメは原作に忠実だったのだなぁ、と感心しています。

2011年5月29日日曜日

カヨはミヨなのか?

 小川一水著「天冥の標II 救世群」、読了です。
 突拍子もない展開で物語が進み、そして「ええ?こんな終わり方でいいの?」と裏切られたような結末を迎えた前作に比べると、多少は現実的なお話しになっているようです。
 たぶん、前作のような世界がいかにして創られたかの経緯を説明する物語が、これ以降続くと思われます。しかし、その物語が説明的にならず、前作ほどではないにしても、かなりなエンターテイメント性を持っていて、僕はこの作品も一気に読み終えてしまいました。
 そして、「匂い」です。
 「メニー・メニー・シープ」のレビューにも書きましたが、エランカがラゴスに欲情していく段階として、匂いの存在は大きかったと思うのです。「救世群」では、その「匂い」がクローズアップされ、冥王斑という感染症の重要なキーワードになっています。
 そして「断章二」で描かれる奇妙な物語。ウィルスとして保存されていた被展開体(知性体?のような存在)が、羊の遺伝子として取り込まれます。
 これ、上田早夕里著「華竜の宮」のレビューにも書いたポール・ディ・フィリボ著の短編「系統発生」を思い出します。ただし、一水の場合は、そのまま、ウィルスとして保存された存在としてなんらかの知性を登場させています。
 このウィルス化して保存されていた知性が、「メニー・メニー・シープ」に登場した「ダダー」のようです。そして、「ダダー」は、フィオドールの開発したソフトウェアと一体化し、コンピュータの中で人格を得ます。この「ダダー」が物語の重要な存在であることは「メニー・メニー・シープ」での登場の仕方からも推測できます。

 今後の展開を予想です。
 冥王斑のウィルス保持者が、今後どんどん増えていき、ウィルス保持者同士で交配をくり返し、世代を重ねることによって、別種の生物へ進化していくのではないか?
 精細胞や卵細胞の遺伝子が、ウィルスによって変異するわけです。その変異の結果が、「メニー・メニー・シープ」に登場したイサリたちなのではないかと思うのです。
 しかし、これにアクリラたちの祖先がどう関わっていくのかは、今後の作品を読まなければまったく予想できません。

 ちらっと三巻の「アウレーリア一統」を読んでみたところ、木星での話やカヨがナビゲーターをやっている場面などが描かれているようで、これはもしかして本当に「Slowlife in Starship」の世界観を引きずっているのかも知れません。いや、もしかすると、このカヨは、「Slowlife in Starship」のミヨと同一のロボットなのかも知れない!
 アクリラたちの祖先の活躍、今後の展開が楽しみです。彼らは、どう「冥王斑」や「ダダー」と関わっていくのでしょうか。「ダダー」は、どこから来たのでしょうか。
 楽しみですね。

2011年5月27日金曜日

メニー・メニー・シープ

 小川一水著「天冥の標I メニー・メニー・シープ」上下巻、読了です。
 これまでに読んだどの小川作品と比べてもエンターテイメント性が高く、作品に引き込まれるように、僕は一気にこの二冊を読み終えてしまった!
 すごいなぁ、これ。
 滑らかな文章と、本当に一水なのか?と疑わせるようなエロティックな描写。失礼、僕は、小川一水にこういった「小説のうまさ」は、それほどないんじゃないか?と思っていました。
 たしかに、さらさら読めてしまう文章に好感を持ってはいたのですが、まさかこんな文章も書けるとは……。エランカがラバーズのラゴスに欲情していく様子が、なんの説明もなしに納得できてしまえる。ラゴスの描写に散りばめられた「匂い」の要素が、たぶんそれを可能にしているのだろうと思う。いや、参りました。
 また、短編集「フリーランチの時代」に収録されていた「Slowlife in Starship」に登場したあのミヨを思わせるメイドロボットが登場します。その名も、カヨ。「Slowlife in Starship」で、ミヨはナビゲーターをやっていましたが、専門はメイド。一方、「天冥の標」の中で、カヨはハウスキーパーに徹します(加速度センサーを使ったナビゲーターのような仕事もしましたか?)。もしかすると、「天冥の標」は「Slowlife in Starship」の世界観を持っているのでしょうか?そんな想像もしてしまいます。何にせよ、ミヨに萌えていた僕にとって、これは思わぬ収穫。
 そして、現在「天冥の標II 救世群」を読んでいます。これが、たぶん「天冥の標I」の過去の話に相当するであろうと推測できるので、今後はカヨの過去なども書いてくれるのではないかと期待しています。

2011年5月20日金曜日

マリア様を見た

 気がつくと、僕は修学旅行で京都にいた。いや、たぶん京都だと思う。石段と坂道。あれは以前、京都を旅したときに見た風景だ。
 ほら、あの場所は舞妓さんが立っていて、観光客から写真を撮られていた場所じゃないか。
 ほころびかけた記憶の断片を辿って、僕はゆっくりと歩く。
 人影はまばらなのだが、僕は妙にうきうきしていて、笑顔を振りまく隣の彼女と冗談を言い合った。
 不思議と声は聞こえてこない。声は聞こえないのだが、彼女の楽しさだけは伝わってくる。
 大きな目を細め、ツインテールの髪を揺らし、僕の腕に自分の腕を絡めて笑う。紺色のセーラー服に白いタイ。半袖から覗いた白い腕が、僕に柔らかく触れていた。
 彼女の名前は福沢祐巳。同じ高校の二年生。
 表情の豊かな女の子だ。
 めまぐるしく表情の変わる彼女が何かしゃべるたびに僕は相づちを打つ。彼女は、そんな僕の単純な反応で、さらに機嫌を良くした。
 同級生たちの姿は見えない。自由行動で、僕らはふたりきりになったのだ。
 やがて僕たちは、一軒のみやげ物屋に入った。
 そこで、僕たちはよく知った人を見つけた。みやげ物屋に並んだ品々から、ひとつだけ手にとって眺めているワンピースのセーラー服を着たスラリとした女性。少しきつくい、でも憂いのある切れ長な彼女の目が、品定めでもするかのようにみやげ物に視線を注いでいる。うつむき加減でみやげ物を見つめていた彼女は、顔に落ちてきた長い黒髪を、片手でスッとかき上げた。
 三年生の小河原祥子さまだ。
 たぶん、祐巳ちゃんのことが気になって、京都まで来たんだ。
 僕はそんなふうに想像した。
 話しかけようか?
 でも、祥子さまは男嫌いだ。僕が話しかけるわけにはいかない。
「祐巳ちゃん、お姉さま来てるよ。話してきなよ」
 僕はそんなふうに言った。いや、たぶん言ったのだと思う。
 すると祐巳ちゃんはうなずいてから、とてもうれしそうな顔をして駆け出した。ミニのプリーツスカートが祐巳ちゃんの体の動きに合わせて揺れ、一瞬だけ純白のショーツが顔を覗かせた。
 祥子さまのもとに、弾むように駆け出した祐巳ちゃん。
 その後ろ姿を見送る僕。
 そこで、目が覚めた。

 夢オチかよ!(^_^;)
 すいません。脳みそが煮え切ったような、こんな夢を見てしまいました。w
 いや、前日ですね、ちょっと仕事で嫌なことがあったのですよ。
 で、悪い夢でも見るかな?とか思っていたわけなのですが、予想とは大違い。なんとも幸せな夢を見てしまいました。
 仕事のことなんて、これっぽっちも考えちゃいねぇ。w
 っていうか、これってメチャクチャ良い夢だったのではないか?僕が一生の内に何度見るかわからないほど、貴重でスウィートでエクセレントな夢だったのではないか?
 と、思ったのですよ。マジで。
 で、目が覚めた時間が4:00だったので、もしかして夢の続きを見られるかも?と思い、必死で二度寝を試みました。
 でも、一度目が覚めてしまうと、なかなか寝付けないものですね。余計に目がさえちゃいました。
 まぁ、寝たからといって、同じ夢を見られる保証もないんですけど。

 それにしても、今回の夢、今野緒雪著「マリア様がみてる」の小説と、設定が同じ箇所もあれば、まったく違う箇所もあります。夢って、都合の良いようにできています。
 まず、修学旅行の場所。
 「マリア様がみてる」の修学旅行はイタリアなのですが、夢では京都です。僕がイタリアに行ったことないからなのでしょう。
 次に祐巳ちゃんの通う高校はリリアン女学園なので女子高なのですが、夢では共学でした。共学じゃないと、僕は登場できません。
 あと、リリアンの制服は長いスカート丈でワンピースのセーラー服なのですが、夢ではミニスカートでした。これはたぶん、僕の好みを反映しているのでしょう。
 祐巳ちゃんが表情豊かなところや、祥子さまが男嫌いなところは原作通りです。

 祐巳ちゃんと祥子さまは、あのみやげ物屋でどんな会話をしたんだろう?
 ああ、続きが気になるなぁ。(^_^;)

2011年5月19日木曜日

「殺人」だけの特別な因子

 上田早夕里著「魚舟・獣舟」、読了です。
 結局、最期まで上田早夕里の小説には納得できませんでした。
 「小鳥の墓」においても、あたかも「人殺しの遺伝子」があるような記述に違和感があります。
 少し抜粋します。

──ここから──

 人類の歴史上、殺人という行為が途絶えなかったのは、人類の中に常に、簡単に殺人モードに移行する個体が発生する仕組みになっている、もしくは誰もがその因子を持っていると考えると、筋が通るのかもしれない。

──ここまで──(光文社文庫・上田早夕里著「魚舟・獣舟」302頁)

 この数行に、「浮気をするのは遺伝子のせい」といった妙な解釈に似た、誤った思想を感じます。
 仮に、殺人の因子が全ての人類にあるとしても、殺人を犯した理由が、本当にその因子にあるとどうやって特定するというのでしょう。それに、行動の全て──、殺人や窃盗や強姦や援助や寄付や恋愛など、すべての行動に特定の因子があり、その因子によって行動が引き起されているかのようにも思えます。
 しかし、恋愛を引き起す因子は、逆に強姦や殺人を引き起すかもしれないし、援助や寄付と言った行為も、窃盗と同じく打算的な行為かもしれません。
 殺人という突出した悪行だけに注目すれば、その行為だけが何らかの特殊な因子に起因しているかのように感じるのかも知れません。しかし、殺人という行為だけが独立した因子によって成り立っているわけではなく、日常生活をおくる上での様々な感情や行為の因子と連携しながら生じた結果の罪であるならば、その行為もまた、もしかするとヒトにとっての「日常」なのかもしれません。

2011年5月18日水曜日

ヒトとは思えない登場人物たち

 上田早夕里への反論、その第2回目です。
 短編「魚舟・獣舟」の中で、上田は、線虫とヒトの遺伝子数を比較し、線虫が二万、ヒトが二万三千であることから、生物の複雑な差異は遺伝子の数に依存しないことを述べています。つまり、生物の表現型は、遺伝子をどうやって・何回・どんな組み合わせで使いまわすかで決まり、それを応用することで、魚舟のような表現型を持ったヒトも生み出すことができる──、と説明しています。
 つまり、この行は、僕の2011512日木曜日のブログ「華竜の宮」で述べたことが、少し誤りであることを明らかにしました。上田は、この短編において、魚舟の科学的な背景を述べていたのです。
 しかし、それでも僕はこの説明に納得するわけにはいきません。
 ヒトの遺伝子の使用回数や組み合わせを変え、誘導の連鎖反応をものの見事に書き換えて、ヒトの遺伝子で線虫が生み出せるのなら、その線虫もヒトであることになります。(両生類のような生物に変わることができるのならば、線虫にだって!w)
 では、逆の場合はどうでしょう。ヒトよりも遺伝子数が多い植物やミジンコなどの生物の遺伝子を利用し、ヒトもできるのではないでしょうか?何か悪夢のようですが、これが可能であれば、ヒトの遺伝子を改変する必要などなく、ミジンコや植物(これも死滅してしまうのならば、地熱を利用するような微生物など)が生き残ってくれれば、それでいいような気もします。(^_^;)
 そして、ヒトにとって都合の良い世界がやがて訪れたとき、ヒトに変わるためのスイッチが入って、ミジンコがヒトになる──。こっちの方が、SF的にも面白いのではないかと思うのですが、どうでしょう?
 次に、もし、魚舟にならなければ、ヒトが地球環境に適応できないような場合、果たしてそれをヒトが受け入れられるかどうか、です。
 僕は、受け入れられないのではないか?と思うのです。
 ヒトが、好ましいと思うか好ましくないと思うのか、それには傾向のようなものがあって、自分のふたごが魚舟のような容姿を持って生まれてくることに、少なからず嫌悪感を抱くだろうと予想できます。(あるいは、魚舟の容姿をまとって生まれてくるのは、自分自身かもしれません)ヒトが、好ましく思う容姿は、やはり自分に似た姿であり、いかに海上生活に適応しようとも、両生類のような容姿ではないと思うのです。性淘汰のような場合、そこには雄や雌の選好性が大きく関わってきます。わずかな両目の距離の違い鼻の横幅の差異であっても、それを好ましく感じたり好ましくないと感じたりする生き物が、果たして両生類のような外観を受け入れることができるのでしょうか。
 僕は上田の作品に感動も何も感じないと述べました。それは、上記のような理由によります。「魚舟・獣舟」でのヒトが、どう考えても、僕の知っているヒトとは違った思考を持っているとしか思えず、彼らを僕とは同じヒトとは到底思えないからです。よって、「魚舟・獣舟」で活躍している登場人物たちは、ヒトに似た別の生き物であり、そこから「ヒトとは何か?」といったような議論は導かれません。

2011年5月16日月曜日

人はどうして海を美しいと思うのか

 上田早夕里著「魚舟・獣舟」、上田早夕里の良さがまったく理解できないまま、読み進めています。
 短編「ブルーグラス」まで、読み終えました。
 伸雄がブルーグラスを珊瑚礁に置いてきたこと自体、立派な環境破壊である、ということ以外に、なんか、よくわからん話です。(^_^;)
 132頁より、一部抜粋します。

──ここから──

 人類の本質が、海洋を利用し、汚染し続けることにこそあるのだとすれば、なぜ自分たちは、この厳しくたおやかな世界が失われるのをこれほどまでに惜しむのだろう。どうして海を、ただの資源として割り切って見られないのか。宇宙空間を漂う鉱物資源と同じ感覚で見られれば、これほど苦悩はしないだろうに。なぜ自分たちは、海という存在を、これほどまでに愛してしまうのか。

──ここまで──(光文社文庫・上田早夕里著「魚舟・獣舟」132頁)

 この答えは簡単です。それは、自分たちにとって都合の良い環境が失われてしまうことへの危機感が、人をそのような感情へと導くからですね。
 よく、「地球に優しい」という言葉を耳にしますが、地球は、破壊されようが汚染されようが、生物が絶滅しようが、無関心なままです。何が起ろうと、太陽のまわりを回り続けるでしょう。地球にとって、海洋汚染や大気汚染など、どうでもいいことなのですよね。では、なぜ、そのような行為に人が危機感を募らせるのかと言えば、人にとって都合の良い環境が破壊されてしまうからに他ありません。「地球に優しい」と思っていた行為は、じつは「人に優しい」行為だったのです。
 人は、海だけではなく、古くから森林なども保護してきました。その理由は、領主の狩場が荒らされるからという理由でした。これと、現代における環境保護は、同じ物です。「領主の狩場」が「人類の狩場」に置き換わっただけで、どちらも、自分たちにとって利用できる都合の良い環境を保全しようと考えていることに違いはないのですから。
 宇宙空間を漂う鉱物資源がなくなってしまうことに、人は何の感情も抱かないでしょう。なぜなら、そこは、自分たちにとって都合いい環境とは言えないからです。鉱物資源が枯渇することによる経済的な心配をするだけですね。
 あと、「人類の本質が、海洋を利用し、汚染し続けることにこそある」は、「生物の本質が、」と改めさせていただきたい。
 あの美しい珊瑚礁に住む生物たちが、海洋を利用し、汚染し続けていることは明らかです。仮に、ある種のヒトデが爆発的に数を増やしたとしても、そのヒトデは妥協することなく海洋をこれまでと同様に利用し、汚染範囲を広げようとするだろうし、サンゴすら、できることならば海洋を利用し尽くすまで、個体数を増やそうとするでしょう。美しい色や模様をした熱帯の魚たちも、可能であるならば他の生物を根絶やしにするまでその数を無限に増やし続け、海洋資源を蹂躙し続けるでしょう。この力関係の葛藤が生物の多様性の正体であり、人が多様性のある海を美しいと感じるのは、それが単に人にとって都合の良い環境だからです。もしかするとシアノバクテリアにとって美しい環境とは、もっと違うものなのかもしれません。
 上田早夕里を読むと、反論したいことの方が多すぎて、何かすっきりしない──。たぶん、反論はまだまだ続きます。(^_^;)