ルーシー・モード・モンゴメリ著「アンの愛情 赤毛のアン・シリーズ3」、読了です。
自分のそばかすだらけの顔や赤毛といった容貌を、他人から評価されることをアンは嫌う一方で、チャーリー・スローンの顔を出目金のようだと評価します。男性とのロマンチックな出会いの要素のひとつとして、男性側にも容貌の美しさを求めています。この無邪気で他愛のないダブルスタンダードな残酷さこそ、少女らしさなのかもしれません。そこに萌えない男は、男じゃない!(^_^;)
この「アンの愛情」で、ようやくアンはギルバートへの自分の気持ちを認めるわけなのですが、ギルバートと同性である僕にとって、このギルバートという男がそれほど魅力ある男とは思えないのですよね。こんなつまらん男と一緒になるくらいなら、少年であるポール・アーヴィングの童貞を年上のお姉さんであるアンが無理矢理奪ってしまって……。いや、これはすでに少女小説ではありませんね。失礼しました。(^_^;)
現在、手元には「赤毛のアン」のシリーズが「5」の「アンの幸福」まで用意しています。ですが、その前にSFを数冊読みます。パオロ・バチガルピ著「ねじまき少女」の上巻下巻、そして小川一水著「風の邦星の渚 [レーズスフェント興亡記]」上巻下巻です。
その中で、パオロ・バチガルピ著「ねじまき少女」上巻をすでに読み始めています。僕にとっては鬼門である海外SFですね。w
化石燃料代が高騰し、何種類かの病原菌の蔓延によって、社会構造が変わってしまった未来を描いているようです。しかし……。天井の換気ファンをしばらく回し続けるようなゼンマイを巻き上げるのに、いったいどのくらいのエネルギーを要すのでしょうか。ここにもエネルギー保存則が適用されるので、このゼンマイを巻くために、その人間は、一定期間換気ファンを回し続けるだけのエネルギーをゼンマイに与えなければなりません。
これ、人がゼンマイを巻くのではなく、巻き上げられたゼンマイが仕事を終えた場合、使用後のゼンマイをメーカーに返し、新たに巻き上げられたゼンマイを買うようなシステムの方があり得ると思うのです。そして、そのゼンマイを巻き上げるために必要だったカロリー(食料代)や、ゼンマイを巻き上げる動物を飼うための経費などによって価格が決定します。ゼンマイ本体はレンタル商品であるわけです。使用済の乾電池をメーカーに返し、充電済の乾電池を新たに買うようなものです。こっちの方があり得ると思うのですが、どうでしょう?
あと、日本語が少し変。~を~をと続いたり、句読点がまったくなかったり……。
その他、少し抜粋します。
──ここから──
ヤオラワットのスラム街から外へ出る道は、あちこちに物陰やしゃがみこむ人だらけだ。
──ここまで──(ハヤカワ文庫 パオロ・バチガルビ著 田中一江・金子浩訳「ねじまき少女 上」154頁)
これって、原文でもこうなっているのでしょうか?だとすると、翻訳家のミスではないですよね。
あと、タイトルになっているねじまき少女は、性奉仕をする遺伝子操作された新人類です。あたかも一水の「天冥の標」に登場する<恋人たち(ラバーズ)>のようです。ですので、この二作品におけるそれぞれの「性奉仕する人形」を、無意識にも比較してしまいます。これは、読了後に比較して見たいと思います。あと、ねじまき少女が日本製というのも興味深いですね。日本人はたぶん、誰でもこういうものを求めていると、僕も思っていますので──。
2011年6月29日水曜日
2011年6月16日木曜日
エロいSF
小川一水著「天冥の標IV 機械じかけの子息たち」、読了です。
最初から最後まで、エロいです。(^_^;)
でも、考えてみれば、「メニー・メニー・シープ」から一貫して「天冥の標」の根底にあるものは、人の情動のようなもので、「メニー・メニー・シープ」ではエランカがラドスに欲情し、「救世群」では圭伍が千茅の幼い乳房に触れ、「アウレーリア一統」では、アダムスがミクマックのたくましい体に抱かれたいと感じました。小川は、人のそういった情動を描こうとしているかのようです。何が彼らをそのように突き動かすのかはわかりませんが、ときに、情熱的な性衝動に突き動かされてしまうものなのですね、人というのは……。そういう意味では、人はまったくの文化的な存在ではなく、動物的な側面を色濃く残している生き物なのでしょう。「機械じかけの子息たち」を読みながら、そんなことを考えてしまいました。
性愛を描いたSFはいくつか読んだことがありますが、これほど真正面から性愛を取り上げ、哲学的にも楽しい作品は珍しいのではないでしょうか。人が、繁殖というくびきから解放された性愛を身につけ、娯楽としての性戯を楽しみ謳歌しながら、そこに罪悪や軽蔑、そして羞恥を感じるのはなぜなのだろう、といったような背反するいくつかの感情について議論しています。果たして、繁殖を伴わない性愛は、社会的に、あるいは倫理的(生物学的にではなく)には正しい行いなのでしょうか、それとも間違った行為なのでしょうか?
時間軸的に「アウレーリア一統」の直後の話であることがわかります。そのためか「天冥の標シリーズ」としての物語展開はそれほど進行していないように思います。
「天冥の標シリーズ」の中で、<恋人たち(ラバーズ)>がどういう立場にあるのか?や、ダダーの目的など、不明なことが多すぎて今後の展開がまったく読めません。今後の展開に期待します。
2011年6月10日金曜日
性愛についての考察
小川一水著「天冥の標IV 機械じかけの子息たち」を読んでいます。
性愛の奉仕をもって人に尽くすアンドロイドたちの話ですので、全編、性愛に関するテーマに満ちています。しかも、それが繁殖を目的とするための性愛ではなく、快楽を得ようとするための性愛に重点が置かれているため、より直接的にセックスについて描かれています。
ヒトのセックスは、霊長類の中でも特にコミュニケーション的な意味合いが強く、繁殖という目的の他にも、重要な役目を担っているようです。そう言う意味でも、男女、あるいは男と男、あるいは女と女、あるいは複数の男女による快楽の追求は、ヒトとしての行為であり、それが道徳的であるかないかの議論は別として、生物学的にも正しい行為であると言えます。「愛とは何だ?」という議論に一番正解を与えそうなジャンルが生物学だ、と僕は思っています。だから、小川のこの作品は、僕にとって究極のハードSFです。
性愛やセックスに関しての哲学的な面白さは本編を読めば十分です。僕があえて書く必要もないでしょう。それ以外の話を。
まず、主人公のキリアンのアイデンティティ・クライシスが、まるでディックの小説のように起きてしまうこと。そして、人々の快楽を求める行為が、「新世紀エヴァンゲリオン」の人類補完計画のように思えてきてしまうこと。そして、「混爾(“マージ” と読む。経緯とも、愛とも関係なく、それ自体だけで自立した、よいセックス、という意味らしい)」を探し求めるキリアンたちが、「俺の空」の安田一平に思えてしまうこと。(^_^;)
この三つです。
ディックの小説については、短編「にせもの」や有名な「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」で語られるような、「自分はいったい何者だったのか?」と思わせるような展開が似ていて、自分がアンドロイドであると知ったキリアンが、自らをどう認識していくのか、これからの展開が楽しみですね。
人類補完計画との類似性はというと、人が自分の欠落した部分を補おうとした場合、補完すべきものは自分の中にある理想的な他者であり、決して他者そのものではないというようなことを思ってしまうからですね。人々がセックス中に脳内で感じている快楽は、あくまで個人的な主観であり、交わっている他者と同じような快楽を得ていると錯覚している可能性が高いということです。そう言う意味では、理想的な他者を対象として行なうセックス(これはもしかしてオナニーなのかもしれない!)というのは究極の快楽であり、「天冥の標IV 機械じかけの子息たち」で<恋人たち(ラバーズ)>と交わる人々は、他者をアンドロイドとすることで、オナニーに近い快楽を貪っているようにも思えます。伊吹マヤが人類補完計画で望んだ赤木リツコは、あくまで伊吹マヤが脳内で作り出したキャラクターでしかないというのと、同じです。
そして、「俺の空」については、まったく僕の誤解かもしれません。
セックス行脚の旅に出る主人公安田一平の行動と、「混爾」という理想的な快楽を求めるキリアンとアウローラのふたりのアンドロイドの行動が似ていると感じただけです。というか、僕は「俺の空」についてよく知らないので、これ以上述べるべきではないのでしょう。
性愛の奉仕をもって人に尽くすアンドロイドたちの話ですので、全編、性愛に関するテーマに満ちています。しかも、それが繁殖を目的とするための性愛ではなく、快楽を得ようとするための性愛に重点が置かれているため、より直接的にセックスについて描かれています。
ヒトのセックスは、霊長類の中でも特にコミュニケーション的な意味合いが強く、繁殖という目的の他にも、重要な役目を担っているようです。そう言う意味でも、男女、あるいは男と男、あるいは女と女、あるいは複数の男女による快楽の追求は、ヒトとしての行為であり、それが道徳的であるかないかの議論は別として、生物学的にも正しい行為であると言えます。「愛とは何だ?」という議論に一番正解を与えそうなジャンルが生物学だ、と僕は思っています。だから、小川のこの作品は、僕にとって究極のハードSFです。
性愛やセックスに関しての哲学的な面白さは本編を読めば十分です。僕があえて書く必要もないでしょう。それ以外の話を。
まず、主人公のキリアンのアイデンティティ・クライシスが、まるでディックの小説のように起きてしまうこと。そして、人々の快楽を求める行為が、「新世紀エヴァンゲリオン」の人類補完計画のように思えてきてしまうこと。そして、「混爾(“マージ” と読む。経緯とも、愛とも関係なく、それ自体だけで自立した、よいセックス、という意味らしい)」を探し求めるキリアンたちが、「俺の空」の安田一平に思えてしまうこと。(^_^;)
この三つです。
ディックの小説については、短編「にせもの」や有名な「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」で語られるような、「自分はいったい何者だったのか?」と思わせるような展開が似ていて、自分がアンドロイドであると知ったキリアンが、自らをどう認識していくのか、これからの展開が楽しみですね。
人類補完計画との類似性はというと、人が自分の欠落した部分を補おうとした場合、補完すべきものは自分の中にある理想的な他者であり、決して他者そのものではないというようなことを思ってしまうからですね。人々がセックス中に脳内で感じている快楽は、あくまで個人的な主観であり、交わっている他者と同じような快楽を得ていると錯覚している可能性が高いということです。そう言う意味では、理想的な他者を対象として行なうセックス(これはもしかしてオナニーなのかもしれない!)というのは究極の快楽であり、「天冥の標IV 機械じかけの子息たち」で<恋人たち(ラバーズ)>と交わる人々は、他者をアンドロイドとすることで、オナニーに近い快楽を貪っているようにも思えます。伊吹マヤが人類補完計画で望んだ赤木リツコは、あくまで伊吹マヤが脳内で作り出したキャラクターでしかないというのと、同じです。
そして、「俺の空」については、まったく僕の誤解かもしれません。
セックス行脚の旅に出る主人公安田一平の行動と、「混爾」という理想的な快楽を求めるキリアンとアウローラのふたりのアンドロイドの行動が似ていると感じただけです。というか、僕は「俺の空」についてよく知らないので、これ以上述べるべきではないのでしょう。
2011年6月9日木曜日
ダイイングメッセージの謎
桜庭一樹著「GOSICKs IV 冬のサクリファイス」、読了です。
テレビ11話「そのドリルは雄弁に愛を語る」にあたるエピソードが、この外伝第一話「白の女王は君臨する」になります。
ジャクリーヌ・ド・シニョレーは、ヴィクトリカの背中が昔飼っていたリスのキューちゃんに似ていることから、自分が殺人犯なのではないかと疑われた過去を語ります。ジャクリーヌに想いを抱いていたブロワは、腹違いの妹であるヴィクトリカに事件の解決を依頼し、結果、あのような恥ずかしい髪型(第一段階!)になってしまったわけです。
そのエピソードに出てくるダイイングメッセージの謎なのですが、どう考えてみても無理があるんじゃないかと……。
寝転がり、腕を伸ばした状態で書いたpという文字がqになってしまうなど、あり得るのでしょうか?たぶん、頭上に真っ直ぐ伸ばした腕でpと書けば、間違えてqと書いてしまいそうなのですが、普通に腕を伸ばして書いただけならば間違えることはないように思います。しかも、死に行く人間がペットの名前を書くかと……。警察、気付よ!(^_^;)
いや、こんなふうに突っ込む気はなかったのですが、誰も書いている人がいないようなので、ちょっと書いてみました。鏡文字にするのであれば、胸元に手をやって、その状態で自分の胸に文字を書かせた方が良かったのではないかと思うのですがどうでしょう?
迷路花壇の奥にある小さなおうちでひとりチェスに興じるヴィクトリカ。「チェックメイトだっ!」と叫んで知性の浪費をしています。たぶん、ひとりでチェスを打っているのでしょう。そこに勝ったヴィクトリカがいるということは、負けたヴィクトリカもいるということで、負けた方はどんなに悔しがっていることか!想像しただけで萌えてしまいます。
さて、次巻でシリーズ最終回ということです。楽しみであり、ちょっと恐い気もしますね。
テレビ11話「そのドリルは雄弁に愛を語る」にあたるエピソードが、この外伝第一話「白の女王は君臨する」になります。
ジャクリーヌ・ド・シニョレーは、ヴィクトリカの背中が昔飼っていたリスのキューちゃんに似ていることから、自分が殺人犯なのではないかと疑われた過去を語ります。ジャクリーヌに想いを抱いていたブロワは、腹違いの妹であるヴィクトリカに事件の解決を依頼し、結果、あのような恥ずかしい髪型(第一段階!)になってしまったわけです。
そのエピソードに出てくるダイイングメッセージの謎なのですが、どう考えてみても無理があるんじゃないかと……。
寝転がり、腕を伸ばした状態で書いたpという文字がqになってしまうなど、あり得るのでしょうか?たぶん、頭上に真っ直ぐ伸ばした腕でpと書けば、間違えてqと書いてしまいそうなのですが、普通に腕を伸ばして書いただけならば間違えることはないように思います。しかも、死に行く人間がペットの名前を書くかと……。警察、気付よ!(^_^;)
いや、こんなふうに突っ込む気はなかったのですが、誰も書いている人がいないようなので、ちょっと書いてみました。鏡文字にするのであれば、胸元に手をやって、その状態で自分の胸に文字を書かせた方が良かったのではないかと思うのですがどうでしょう?
迷路花壇の奥にある小さなおうちでひとりチェスに興じるヴィクトリカ。「チェックメイトだっ!」と叫んで知性の浪費をしています。たぶん、ひとりでチェスを打っているのでしょう。そこに勝ったヴィクトリカがいるということは、負けたヴィクトリカもいるということで、負けた方はどんなに悔しがっていることか!想像しただけで萌えてしまいます。
さて、次巻でシリーズ最終回ということです。楽しみであり、ちょっと恐い気もしますね。
2011年6月2日木曜日
これは誰が演出したのか
ゴールデンウィークを利用してアニメ「赤毛のアン」を観たわけなのですが、原作を読んでみると面白いことに気付きます。
アニメの第一話。マシュウが馬車でアンをグリーンゲーブルズまで連れ帰るシーンで、アンのおしゃべりに耳を傾けるマシュウが、目ですごく演技しているのですよね。マシュウはもともと無口なので、あまりしゃべりません。ところが、その無口なはずのマシュウが、目でスゴイ演技をしているわけです。上を見たり、アンを見おろしたり、斜め上を見上げたり。
この演出はすごいなぁ、と思って、原作ではどのように描写されているのだろうかと注目して読んでみたところ、原作にはそんな描写は一切ないのです。ただ、アンの長々としたおしゃべりと、マシュウの辿々しい受け答えだけで、マシュウが視線をさまよわせた、とか、マシュウは上を見上げて考え込んだ、などのような記述は一切ありません。
つまり、アニメ「赤毛のアン」の演出家は、原作の行間から、マシュウのあのような表情を読み解いて演技させたわけです。しかも、その演技がピタリとあのシーンに合っていて、原作の行間の向こうで、本当にマシュウはあのような表情をしていたかのように思ってしまいます。すごい演出家です、高畑勲は……。
リンゴの並木道を通った直後、しゃべり続けていたアンが、「まあ、クスバート(アニメではカスバート)さん!まあ、クスバートさん!!まあ、クスバートさん!!!」と叫んだまま絶句します。その様子はマシュウ目線で描かれ、「はなやかな空をよぎる美しい幻の群れを、見つめているかのようだった」とモンゴメリが補足を入れているだけで、他には一切アンの内面は描かれていません。ところが、高畑勲は、ものの見事にアンの内面世界を描き切りアニメーションで鮮やかに表現しています。
少女小説をここまで完璧に読み解き、原作にない描写を演出し、行間の狭間を埋めるような演技を登場人物に与えることなど、簡単にできることではありません。天才ですよね。女性以上にアンの内面を知り、少女たち以上に「赤毛のアン」を理解した男(こう書くとちょっとキモイですが w)……。前回、アニメは原作に忠実だ、と書いたのですが、訂正します。アニメは原作以上にすばらしい作品だったのですね。
アニメの第一話。マシュウが馬車でアンをグリーンゲーブルズまで連れ帰るシーンで、アンのおしゃべりに耳を傾けるマシュウが、目ですごく演技しているのですよね。マシュウはもともと無口なので、あまりしゃべりません。ところが、その無口なはずのマシュウが、目でスゴイ演技をしているわけです。上を見たり、アンを見おろしたり、斜め上を見上げたり。
この演出はすごいなぁ、と思って、原作ではどのように描写されているのだろうかと注目して読んでみたところ、原作にはそんな描写は一切ないのです。ただ、アンの長々としたおしゃべりと、マシュウの辿々しい受け答えだけで、マシュウが視線をさまよわせた、とか、マシュウは上を見上げて考え込んだ、などのような記述は一切ありません。
つまり、アニメ「赤毛のアン」の演出家は、原作の行間から、マシュウのあのような表情を読み解いて演技させたわけです。しかも、その演技がピタリとあのシーンに合っていて、原作の行間の向こうで、本当にマシュウはあのような表情をしていたかのように思ってしまいます。すごい演出家です、高畑勲は……。
リンゴの並木道を通った直後、しゃべり続けていたアンが、「まあ、クスバート(アニメではカスバート)さん!まあ、クスバートさん!!まあ、クスバートさん!!!」と叫んだまま絶句します。その様子はマシュウ目線で描かれ、「はなやかな空をよぎる美しい幻の群れを、見つめているかのようだった」とモンゴメリが補足を入れているだけで、他には一切アンの内面は描かれていません。ところが、高畑勲は、ものの見事にアンの内面世界を描き切りアニメーションで鮮やかに表現しています。
少女小説をここまで完璧に読み解き、原作にない描写を演出し、行間の狭間を埋めるような演技を登場人物に与えることなど、簡単にできることではありません。天才ですよね。女性以上にアンの内面を知り、少女たち以上に「赤毛のアン」を理解した男(こう書くとちょっとキモイですが w)……。前回、アニメは原作に忠実だ、と書いたのですが、訂正します。アニメは原作以上にすばらしい作品だったのですね。
2011年6月1日水曜日
男の娘の活躍!
小川一水著「天冥の標III アウレーリア一統」、読了です。
男の娘モノではないですか、これ。w
ド派手な外観を持つ宇宙船や小惑星。キルトスカートにタイツという出で立ちの女装少年。そして、愛し合うふたりの男性、あるいはふたりの女性。今回は、性愛に常識を持ち込まない自由奔放な人々が暮らす世界を描いています。デコレーションケーキのような外観を持つ星に住むノイジーラント大主教国の人たちは、「メニー・メニー・シープ」に登場したアクリラたちのご先祖さまですね。
男同士の性愛を描いているのに、読んでいるこっちが全然気持ち悪くない理由は、たぶんアダムスが男の娘だからであり、僕がアニメやラノベで免疫ができているからなのでしょう。この作品、さすがラノベ出身の作家だけあって、小川のエンターテイナーとしての資質を強く感じます。「天冥の標」三作品の中では一番アニメ的ともいえるヴィジュアルを持っていて、娯楽的であり、人が大勢死にながらどことなくユーモラスですらあります。
このユーモアの部分を演出している重要なファクターがメイドロボットのカヨなんじゃないかと思います(彼女はこの作品の中でナビゲーターに徹しているようですが)。重要なところで機能停止したり、フェオドールにとって苦手な存在であったりします。人型だからと「気をつけ」を強要され、イシスに艦を乗っ取られたときには機器扱いで死んだふりをしてブリッジに残りました。美味しいところを持っていきますね。
往年のスペオペを思わせる世界観とストーリー、そしてアニメ的なヴィジュアル。しかし、それ以上に、背景に感じるハードSFとしての作品性。すごいですね。
今後の読書計画です。
「天冥の標」シリーズは「機械じかけの子息たち」が出ているようなので、このまま続けて読みます。次に桜庭一樹著「GosicksIV 冬のサクリファイス」を読んで、その次がいよいよモンゴメリの「赤毛のアン」シリーズです。
「赤毛のアン」シリーズは、なるべくアニメに近い翻訳ということで新潮文庫版をチョイスしてみました。根拠はないのですが、「白いクリスマス」といった今では使わないような言葉をアニメで使っていたので、たぶん翻訳も古い方がいいかと思いまして。
「機械じかけの子息たち」と「GosicksIV 冬のサクリファイス」がまだ手元に届いていないため、先に「赤毛のアン」の冒頭部分を読み始めています。といっても、もう一五〇ページ以上読んでしまいましたが(^_^;)、二、三ページ平気で続くアンのおしゃべりやアヴォンリーの描写、アンの情感豊かなそれでいてどこかユーモラスな空想など、アニメは原作に忠実だったのだなぁ、と感心しています。
男の娘モノではないですか、これ。w
ド派手な外観を持つ宇宙船や小惑星。キルトスカートにタイツという出で立ちの女装少年。そして、愛し合うふたりの男性、あるいはふたりの女性。今回は、性愛に常識を持ち込まない自由奔放な人々が暮らす世界を描いています。デコレーションケーキのような外観を持つ星に住むノイジーラント大主教国の人たちは、「メニー・メニー・シープ」に登場したアクリラたちのご先祖さまですね。
男同士の性愛を描いているのに、読んでいるこっちが全然気持ち悪くない理由は、たぶんアダムスが男の娘だからであり、僕がアニメやラノベで免疫ができているからなのでしょう。この作品、さすがラノベ出身の作家だけあって、小川のエンターテイナーとしての資質を強く感じます。「天冥の標」三作品の中では一番アニメ的ともいえるヴィジュアルを持っていて、娯楽的であり、人が大勢死にながらどことなくユーモラスですらあります。
このユーモアの部分を演出している重要なファクターがメイドロボットのカヨなんじゃないかと思います(彼女はこの作品の中でナビゲーターに徹しているようですが)。重要なところで機能停止したり、フェオドールにとって苦手な存在であったりします。人型だからと「気をつけ」を強要され、イシスに艦を乗っ取られたときには機器扱いで死んだふりをしてブリッジに残りました。美味しいところを持っていきますね。
往年のスペオペを思わせる世界観とストーリー、そしてアニメ的なヴィジュアル。しかし、それ以上に、背景に感じるハードSFとしての作品性。すごいですね。
今後の読書計画です。
「天冥の標」シリーズは「機械じかけの子息たち」が出ているようなので、このまま続けて読みます。次に桜庭一樹著「GosicksIV 冬のサクリファイス」を読んで、その次がいよいよモンゴメリの「赤毛のアン」シリーズです。
「赤毛のアン」シリーズは、なるべくアニメに近い翻訳ということで新潮文庫版をチョイスしてみました。根拠はないのですが、「白いクリスマス」といった今では使わないような言葉をアニメで使っていたので、たぶん翻訳も古い方がいいかと思いまして。
「機械じかけの子息たち」と「GosicksIV 冬のサクリファイス」がまだ手元に届いていないため、先に「赤毛のアン」の冒頭部分を読み始めています。といっても、もう一五〇ページ以上読んでしまいましたが(^_^;)、二、三ページ平気で続くアンのおしゃべりやアヴォンリーの描写、アンの情感豊かなそれでいてどこかユーモラスな空想など、アニメは原作に忠実だったのだなぁ、と感心しています。
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