小川一水著「天冥の標IV 機械じかけの子息たち」を読んでいます。
性愛の奉仕をもって人に尽くすアンドロイドたちの話ですので、全編、性愛に関するテーマに満ちています。しかも、それが繁殖を目的とするための性愛ではなく、快楽を得ようとするための性愛に重点が置かれているため、より直接的にセックスについて描かれています。
ヒトのセックスは、霊長類の中でも特にコミュニケーション的な意味合いが強く、繁殖という目的の他にも、重要な役目を担っているようです。そう言う意味でも、男女、あるいは男と男、あるいは女と女、あるいは複数の男女による快楽の追求は、ヒトとしての行為であり、それが道徳的であるかないかの議論は別として、生物学的にも正しい行為であると言えます。「愛とは何だ?」という議論に一番正解を与えそうなジャンルが生物学だ、と僕は思っています。だから、小川のこの作品は、僕にとって究極のハードSFです。
性愛やセックスに関しての哲学的な面白さは本編を読めば十分です。僕があえて書く必要もないでしょう。それ以外の話を。
まず、主人公のキリアンのアイデンティティ・クライシスが、まるでディックの小説のように起きてしまうこと。そして、人々の快楽を求める行為が、「新世紀エヴァンゲリオン」の人類補完計画のように思えてきてしまうこと。そして、「混爾(“マージ” と読む。経緯とも、愛とも関係なく、それ自体だけで自立した、よいセックス、という意味らしい)」を探し求めるキリアンたちが、「俺の空」の安田一平に思えてしまうこと。(^_^;)
この三つです。
ディックの小説については、短編「にせもの」や有名な「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」で語られるような、「自分はいったい何者だったのか?」と思わせるような展開が似ていて、自分がアンドロイドであると知ったキリアンが、自らをどう認識していくのか、これからの展開が楽しみですね。
人類補完計画との類似性はというと、人が自分の欠落した部分を補おうとした場合、補完すべきものは自分の中にある理想的な他者であり、決して他者そのものではないというようなことを思ってしまうからですね。人々がセックス中に脳内で感じている快楽は、あくまで個人的な主観であり、交わっている他者と同じような快楽を得ていると錯覚している可能性が高いということです。そう言う意味では、理想的な他者を対象として行なうセックス(これはもしかしてオナニーなのかもしれない!)というのは究極の快楽であり、「天冥の標IV 機械じかけの子息たち」で<恋人たち(ラバーズ)>と交わる人々は、他者をアンドロイドとすることで、オナニーに近い快楽を貪っているようにも思えます。伊吹マヤが人類補完計画で望んだ赤木リツコは、あくまで伊吹マヤが脳内で作り出したキャラクターでしかないというのと、同じです。
そして、「俺の空」については、まったく僕の誤解かもしれません。
セックス行脚の旅に出る主人公安田一平の行動と、「混爾」という理想的な快楽を求めるキリアンとアウローラのふたりのアンドロイドの行動が似ていると感じただけです。というか、僕は「俺の空」についてよく知らないので、これ以上述べるべきではないのでしょう。
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