2011年4月28日木曜日

桜庭作品における「私の男」たち

 楽しく読んできた桜庭一樹著「GOSICK」シリーズ、6月に新刊が出て終わってしまうとのこと。
 なぜ終わる! ム━(*`з′)━ゥ
 ヴィクトリカとお別れなんて、絶対いやだぁぁぁぁっ!!
 と、一弥くんみたいなことを、言ってみたりみなかったり。(^_^;)
 これまで、桜庭一樹作品を、「GOSICK」以外に、「私の男」と「推定少女」を読んだわけなのですが、この三作品には共通するものがあることに気付きます。それが何かというと、娘に強烈な影響力をもっている父親の存在です。
 「GOSICK」では、ブロワ公爵が、娘であるヴィクトリカを自分の所有物として利用しています。娘は、父親の支配下に置かれ学園に軟禁され、政治的に利用されようとしています。
 「推定少女」のカナは、常に養父を嫌悪の対象として捉えていました。カナの自意識の中で、父親は、娘の肉体を欲し、性を意識させる男性として存在しています。カナの、自意識が作り出した妄想なのかもしれませんが、父親は、ガムテープとロープを手に、娘の部屋へ入ろうとします。そして、カナの自意識は、父親をまるで性犯罪者であるかのように認識します。その認識がゆえに、カナは自らの今後に悩むのです。
 「私の男」に至っては、幼い実の娘と性的な関係を結んだ淳悟という、非常に醜悪な父親が描かれます。この作品では父親の娘への影響力は絶大です。花は、本当の家族を求める気持ちを、父親である淳悟に結果的にうまく利用される形で、淳悟を愛するようになります。彼らは、お互いの立場を認識した上で、欲望を満たすことに罪悪感を抱くどころか、積極的に交わろうとします。娘を完璧にコントロールし、花の心の奥深くまで立ち入ってしまった父親の支配の腕は、しっかりと花を掴んで離しません。
 「GOSICK」で描きたかった父親像が、桜庭の中で次第に成長し、「私の男」で開花したかのようです。
 昭和後期、家庭の中で、お父さんという存在は希薄でした。例えば、それは、昭和のリカちゃん人形における父親の不在(最近のリカちゃん人形は存在している!)でも証明可能です。お父さんは遅くまで残業し、遠距離通勤で朝早く出かけ、家にほとんどいません。たまの休日には、家でごろごろしているだけの粗大ゴミとして扱われていました。ところが、桜庭の作品においては、家庭の中で父親の権力が強く支配的です、これは注目に値します。
 なぜ彼らは、こうまで娘に影響を与え、支配的でいられるのでしょう?
 あるいは、強烈に父親を意識しているのは、娘の側なのかもしれません。父親を性的に意識してしまう自意識こそ、桜庭の小説に登場する支配力の強い父親像を生み出す正体なのかも知れません。
 「推定少女」におけるカナの父親の場合。カナの部屋に入ってきた理由が、本当にアンテナ修理のためであったなら、父親の色目はカナの妄想が作り上げた幻である可能性も捨てきれません。この作品からは、強い自意識に縛られた少女の妄執が見えます。
 また、「GOSICK」では、ヴィクトリカの母親であるコルデリアを、ほとんど拉致監禁同然に掠い、幽閉したブロワ公爵が、コルデリアにどんな仕打ちをしたのかを想像すれば、そこには、事実、性的な存在としての父親の姿があります。
 そして、「私の男」では、あからさまに娘に対して性的である父親が登場し、娘の身体を蹂躙します。
 これらの作品で、娘は、父親を嫌悪しながらも、経済的には援助される側であることを自覚しています。守られながらも嫌悪し、忌避しながらもすがらなければならない、この葛藤の渦中に彼女たちはいるのです。
 血縁関係にありながらも、あるいは、養父養女関係でありながらも、その根底にあるものが汚らわしい援助交際であるかのような関係が父と娘の間にあり、その関係性を上手に保ちながら、やがて自立できるであろうその時まで、危うい親子の関係をやりくりしようとする少女の姿が見えてきます。
 あるいは、見方を変えれば、少女にとって支配的な者こそ異性なのかもしれません。そういった意味では、淳悟やブロワ公爵、カナの養父こそ、少女にとっての「私の男」たちなのかもしれませんね。

2011年4月17日日曜日

非合理なものへの対応

 小川一水著「青い星まで飛んでいけ」を読んでいます。その中の短編「都市彗星のサエ」と「グラスハートが割れないように」を読了です。
 「都市彗星のサエ」は、彗星に作られた都市で暮らす少年少女の物語。
 そして、「グラスハートが割れないように」は、オカルトにのめり込もうとする少女を、どうすれば救えるか、と言ったお話。こちらが面白かったので、この短編に関連した話題を少し書いてみたいと思います。
 SF作家の山本弘などは、自身のブログで、福島原発の事故に関するニュースを取り上げ、トラック運転手がいわき市内に入ることを恐れているということは、ラジウム温泉に入ることが恐いと言っていることと同じだ、と述べ、『科学的にありえないことを信じているのだから、これは「オカルト」と言うべきである。』と断言しています。また、こういった無知や風評による被害を、許せない、とも述べています。僕も、この意見にある程度賛成です。ただ……。
 このような、合理的ではない思考に対する威圧的な態度が、彼らに対して有効かどうかは別問題です。いかに、山本弘が合理的な考え方を述べようと、科学的な知識を示そうと、感情的な暴走を止めることは非常に困難だと思われます。
 その点、小川一水の小説は、やさしい、と感じました。この懐柔的な態度が、はたして非合理的な思考をする彼らの説得に有効かどうかわからないという点では、威圧的な接し方とかわりありません。しかし、小児科の医師が子供の患者に接するときのように、感情的に暴走する彼らに対して、やさしさも必要なのではないか、とも思うのです。
 でも、どちらの立場をとったところで、所詮、僕たちは非合理的な思考に囲まれて生きていくことにかわりはないんだろうな、とも思っています。
 原発事故の風評被害は、すでに工業製品にまで及んでいるというし、巷にはあいかわらず疑似科学がはびこっているし、宗教的な思想の違いで人が殺されているし──。
 物理法則の中で生きている僕たちの行動を支配しているのは、物理法則の知識とはかけ離れたものであって、物理法則そのものではない、ということなのだろうと思います。

 さて、もうひとつの短編「都市彗星のサエ」も、たのしい作品でした。小川の小説は、読後感がいいですね。