2012年2月28日火曜日

アリシア人の導師は、複雑系の導師だったのか!?

 しばらく本が読めそうにないので、過去ネタでも上げておきます。
 もう何年も前になるのですが、ブルーバックスの都甲潔、江崎秀、林健司共著「自己組織化とは何か」を読んでいて「おや?」と思った一文がありました。
 一部抜粋します。

───ここから───

  物理の世界では、原子サイズの現象をミクロスコピック、人が実感できるサイズをマクロスコピックと呼ぶ。ミクロな世界は私たちには実感できないが、それよりももう少し大きく、マクロな世界よりもずっと小さい世界がメゾスコピックである。(中略)
  メゾスコピックな世界では、興味深い現象、ミクロからもマクロからも予測できない現象が生じる。(中略)
  物理学といえば、古くはガラス瓶の中の気体の状態や金属や土の塊など、巨視的な現象だけを取り扱う力学や熱力学のことであった。そして、原子など微視的な領域を取り扱う必要から、量子力学や統計力学が誕生した。明確に分断できる、この二つの物質の取り扱い方の中間に、メゾスコピック領域は存在する。そして、ミクロともマクロとも異なる現象が生じるということで注目を集めはじめたのである。

 ───ここまで───第5版194ページ~196ページ

 ってことなんですけども、この「中間領域が重要だ」というような考え方、どこかで読んだなぁと思ったら、アリシア人の導師(メンター)のセリフにそっくりなんですよね。
 アリシア人の導師は、レンズマン・シリーズに登場します。レンズマン・シリーズは、EE・スミスによって1930年代から40年代にかけて書かれたスペースオペラです。
 主人公のキム・ポール・キニスンは、人類で初めてグレーレンズマンを経て第二段階レンズマンになったレンズマンで、悪の組織ボスコーンと戦います。
 レンズマンにはそれを庇護するアリシア人、ボスコーンには彼らを支援するエッドア人と、それぞれ超越した知性を持つ存在が背後にます。
 壮大なスケールで描かれる本作は、まさにスペースオペラの原型と呼ばれるもので、バーゲンホルム駆動(無慣性航行)を駆使し、惑星同士をぶつけてしまう!なんてお話もあります。
 レンズマンに関する詳しい説明は他のサイトに任せるとして、本題に入ります。
 レンズマン・シリーズ4作目になる「レンズの子供たち」に、上記「自己組織化とは何か」の一文とそっくりな導師(メンター)のセリフがあります。
 まずは、その部分のあらすじを紹介します。

 第二段階レンズマンとなったキニスンの子供たち。
 その子供たちが、兄妹喧嘩をしている最中に、アリシア人の導師(メンター)が子供たちの中のひとり、クリストファーを自分の元に呼びます。
 兄妹喧嘩のことを導師(メンター)に怒られると思いこんでいたクリストファーですが、アリシアに到着すると、導師(メンター)から、自分が最終訓練を受けることを知らされます。
 導師(メンター)は、クリストファーに、「おまえ自身が現在の能力を発展させなければならないのだ」と告げ、さらに、その能力を発展させるためのエネルギーがあり、そのための技術を自分で獲得しなければならないと告げます。
 しかし、クリストファーは、自分の若さを理由に、導師(メンター)にヒントを求めます。
 導師(メンター)がクリストファーに与えたヒントとは……。

 以降、長いですが抜粋します。

──ここから──

「その点については、ごく広義の、もっとも一般的な用語でなら話すことができる。しかし、いまの協議の結果、与えられるのはただひとつのヒント──もっと正確に言うとひとつのイメージ──だけであることが明確になった。われわれの知識の範囲において、もっとも確実な検証方法は、宇宙万有の心象化である。科学が総体的に唯一のものであることは知っているだろう。すべてに通じる真の鍵は事象の継起の底流をなす法則を知ることにある。しかし、もしそれが純粋な因果律であるなら──すなわち、物事のある状態が、そのゼロに近い一瞬前の状態の不可避的な決着として与えられるなら──大宇宙がたどる全過程はそれが誕生した瞬間において永遠の未来にいたるまで決定されていることになる。初期の思索者の多くを絶望に追いやったこの周知の概念は、いまや誤りであることが明らかとなった。その反面、もし偶然がすべてを支配するなら、われわれの知っているような自然法則は存在しえない。よって、純粋な因果律も純粋な偶然性も、それだけでは事象の継起を律することはできないのだ。
 「したがって真理はこの両者の中間のどこかにあるに違いない。巨視的宇宙では因果律が優位にあり、微視的世界では偶然性が優位に立つが、両者とも数学的な確率の法則に従っている。最大の問題は、その両者のあいだ──中間領域、あるいは境界領域と言ってもいいが──ではどうなっているかということだ。誰もが知るように、あらゆる理論の有効性は、それによって得られる予言の正確さによって検証されるが、これまでで最高の思索者たちによれば、宇宙万有の心象化の正当性と信頼性は、その境界領域を構成する諸要素の定義の明確さと線形関数をなしている。その不確定な領域の完全な理解とは、すなわち無限の能力と統計的に完全な心象化を意味する。しかしそうしたことはどれも実現の可能性がない。なぜなら完全な知識の獲得には無限の時間が必要だからである。

 ──ここまで──EE・スミス著/小隅黎訳「レンズマン・シリーズ4 レンズの子供たち」創元SF文庫・初版/182ページより

 なんか似ていると思いません?(^_^;)
 アリシア人の導師は、複雑系の導師だったのか!?

2012年2月26日日曜日

紫色のクオリア

 うえお久光著「紫色のクオリア」、読了です。
 ラノベでSFが読みたい、というわけで、好評そうなこの一冊を選びました。
 他人がロボットに見えてしまう毬井ゆかりと、ゆかりをなんとか理解しようとしている波濤学、ゆかりの幼なじみの天条七美、一章は彼女たちのゆかりにまつわるお話しです。
 これは、なんと言うか……、すごいですね。
 他者との相互理解や自己のなかにある感覚的質感、あるいは他者のなかにあると信じている「心」の存在、などの危うさを描いていて、それがSF的な大嘘(w……、僕なりの褒め言葉です)とうまく絡んでいます。一章の「毬井についてのエトセトラ」だけでもお腹いっぱいでした(あとがきによると、この部分が短編として先に発表されたらしい)。
 そして次章の「1/1,000,000,000のキス」から突入する量子ワールド。
 ゆかりは留学してきたアリスに勧められ、「ジョウント」と呼ばれる組織に入り、転校してしまいます。そして、ゆかりの死。波濤学は、ゆかりを助けるために、多世界解釈的なさまざまなパラレルワールドを試します。
 某SFで読んだことのあるような大ネタ小ネタを使いながらもオリジナルのストーリーとアイデアを組み上げていて、「フェルマーの原理」を持ち出しながら、学が都合のいい未来に収束しようと試みる行は鳥肌ものでした。ここから、果てしない分岐がはじまり、ありとあらゆる状態の重ね合わせを体験するんだろうなぁ、と思ったらまさにその通り。その分岐はさらに過去へと広がり、あるいは「神」のようなものにもなりながら、学は必死に毬井を助けようとします。
 ラノベだからこその、あの結末であり、エンターテイメントとしても面白く、最後まで楽しめました。SFとしても良作だと思います。

2012年2月20日月曜日

謝罪の続きやお礼や、くすぶる疑問点について

 誹謗中傷というのは、根拠のない事を挙げ連ねて、他人をそしり、攻撃する行為のことです。そういう意味でも、事実無根の批判をAmazonにレビューとして書き、籘真千歳氏の作品を「いい作品ではない」などと評価した僕の行為は、誹謗中傷です。どう弁解しようが、言い逃れはできません。深く反省すると同時に、お詫び申し上げます。どこの誰ともわからないような人間から、あのような批判的なレビューを投稿されれば、その心労は容易に察せられるべきであり、軽率な行為であったと、深く反省しています。
 僕の投稿が誤解に基づいていたことは、先日、このブログに書きました。その誤解による事実誤認を含んだ投稿をAmazonのレビューより削除させていただきました。
 籘真千歳氏のブログで氏が指摘されているように、本文中での赤外線に関する言及は三箇所にものぼり、僕の指摘はまったくの誤認であると判明しました。また、人工知能に関する指摘も、十分納得のいくものであり、氏の言われるように、僕の思い込みです。
 人間が「人工知能が未来を知っている」といった間違った思い込みにふりまわされて人工知能を破壊するはずがない、という前提で読んでいました。僕の中でイメージしていた「人間」が、どういう生き物なのかはこの場合関係ありません。この世界の「人間」が、そのような愚かな人間(人工知能にバーナム効果を感じるような)であると書かれてあるのならば、その前提に沿って読むべきであったと思います。本文中で人工知能自身は、未来予測としか言ってはいません。ざっとではありますが、確認させていただきました。

 しかし、十分頭を冷やしたうえで、よくよく考えてみても、納得のいかない箇所もあるのです。
 僕は読解力がないのでしょう。もしかすると、以下の疑問点も、僕の思い込みによるものかもしれません。
 また、僕は籘真千歳氏に対して悪意を抱いたところで、なんの利益も得ない人間であり、作品に対して最初からケチを付けてやろうなどの敵意を持って読み始めたわけでもないことを断っておきます。ただ、Amazonのレビューやこのブログの文章から、そういった印象を与えてしまったことも事実であり、これについても反省しています。

 疑問点は、主に三つ(もっとあるにはあるのですが、「粘着」と言われそうなのでやめます)。椛子の「日本の屋久杉」発言と、「食料不安がなくなった」という記述、また、揚羽が鏡子から髪を撫でられた場面で「揚羽が、身体に触れる形で愛情を示されたのは初めてだったかもしれない」などの、いずれも籘真氏が僕への反論で書かれている箇所についてです。
 まず、椛子の発言ですが、僕への反論として籘真氏は、

>時系列として、かつて屋久島が日本の領土で会った頃に皇室へ寄贈された品物を、今は椛子が拝領して秘蔵している

 と書かれています。
 しかし、問題の箇所(前後含めて)を何度読み返してみても、「これは屋久杉という、日本の貴重な木でね」とあるだけで、籘真氏の言われるような意味は見つけることができません。これも、僕が読み落としている何かがあるのでしょうか?それとも、僕は、籘真氏が反論されているように読むべきものなのでしょうか?椛子が自治区の総督であるということを加味すれば、非常に微妙な発言に思えるのです。
 また、「食料不安がなくなった」について、籘真氏は、

>視肉はどこでも培養できるものではなく、途上国他への普及は途上にある、ということです。(これも株分けをしている最中、と作中で言及しています)

 と反論されています。しかし、僕の指摘しているP329で、「危機が顕在化しつつあった世界中の食糧不安から、人類を永久に開放した」と明記されているのも事実です。
 僕は、どちらを信じればいいのでしょう?たしかこのシーンは、揚羽の視点で書かれていたはずです。ということは、これは揚羽の思い込みであり、別のシーンでの視肉に関する記述のほうが正しいのでしょうか?

最後に、揚羽が鏡子から髪を撫でられた場面で「揚羽が、身体に触れる形で愛情を示されたのは初めてだったかもしれない」への疑問点です。
 籘真氏は、

>最初の茫然自失のときと、後のシーンでの「揚羽から見た」意味の違いを察してください、としか……。

 と、説明しておられます。
 疑問点と書きましたが、これは、たんなる主観の相違のような気もします。僕は、十分あの場面で揚羽が愛情を感じているはずだと思いました(これはたしかに思い込みかもしれません)。だから、最後の場面で「身体に触れる形で愛情を示されたのは、それが初めてだったかもしれない」とあったので、「ええっ?」となったのです。それでも、いや、鏡子が揚羽を抱きしめた行動は揚羽にとっては愛情と感じられる行為ではなかった、と言われるのであれば、僕は揚羽を理解できません。

 このブログにおいて、氏の作品を揶揄するかのような書き方をしたことについては、十分反省しています。それが、僕の誤解によって生じた事実無根の書き込みであったのなら、その書き込みを「悪意」ととられても仕方のない事です。いかに個人的なブログとはいえ、やってはいけないことだったと反省しています。
 しかし、籘真氏の反論に対しても、以上のような疑問が残っているのです。
 また、Amazonのレビューのなかには、星五つの高評価を与えながら「この作品に、一貫したストーリーは存在しないと言って良いでしょう」などのコメントを見かけます。これなど、小説を書く人間からすれば屈辱的な評価だと思うのです。(ものすごく一貫したストーリーがあるじゃん!!それに、一貫したストーリーがない作品の評価が星五つって、どういうことだ?)
 僕は、氏の作品には一貫したストーリーはあると書きました。伏線や謎があって、その謎が解き明かされていくミステリー構造になっていると思います。なぜ殺された男の身体に子宮があったのか?など、最後まで興味ありましたし、仮に僕の理解できる世界観であれば、すごく面白いと思ったのです。残念ながら、僕に理解できるものではありませんでしたが、それも僕の思い込みや読解力のなさが原因なのでしょう。

籘真千歳氏へ。

 僕への反論をブログで丁寧に書いていただいて感謝しています。どんどん間違った方向へ行ってしまうところでした。この場を借りて、お礼を申し上げます。

2012年2月17日金曜日

謝罪いたします

 僕のAmazonへの投稿に関して、謝罪です。
 僕は、籘真著千歳「スワロウテイル人工少女販売処」以下のように書きました。

 一貫したストーリーはある。だが、籘真は場面場面で都合のいい設定を書き込んでしまう悪い癖があるように思う。ある場面(P221)では、九州は日本ではないと書き、ある場面(P400)では屋久島を日本だと書いている(屋久島だけ日本なのか?)。また、ある場面(P261)では微細機械のために自治区では電波が使用できないと書き、ある場面では揚羽が携帯電話を使っていた(揚羽の携帯はどうやって通話するのだろう)。さらに、畑をやめれば飢えがなくなると語らせ(P195)、別の場面(P329)では視肉によって食料不安がなくなったと書いている。こういった箇所が多数ある(すべて書き出せばかなりな量になる)。いくらストーリーが楽しくても、これをいい作品とは評価できない。
 一番感動的な場面であろうと想像できる箇所(P511)でも、揚羽が鏡子から髪を撫でられ、身体に触れる形で愛情を示されたのは初めてだったかもしれない、と籘真は書いている。人を殺せなかったと泣いたとき、さんざん鏡子に抱きしめられたことを、揚羽は忘れてしまっている(やはり五等級だから?こんな場面でボケなくても……)。
 まだ籘真の作品は本作品しか読んでいないが、個性はいいものを持っていると思う。設定の緻密さを上げればいいものが書けるようになると思う。作者はまだ若いのだろう。他のレビューを読むとファンは籘真の作品に楽しさを感じている。今後に期待したいという思いを込めて、ひとりのSFファンとしてこの作品には星ひとつという辛口の評価を下したい。

 これについて、僕の誤解があったため、全文を削除させていただきました。
 籘真千歳氏ご指摘の通り、携帯電話は赤外線を使用しているとの記述があり、僕の主張はまったく、事実無根の誹謗中傷であったことを認めます。
 関連するブログ等も削除させていただきます。
 籘真千歳氏ならび、関係者の方々には大変ご迷惑をおかけいたしました。ここに謝罪いたします。悪意がある、ととられても仕方のない文章でした。

 また、人工知能に関する認識も、ご指摘のとおりです。

 籘真は、奇抜なアイデアを正当化しようと非常に多弁的になる傾向がある。だが、その多弁的な解説がさらなる矛盾を生み出している。
 未来を知っているふたつの人工知能が賭をする、という奇想天外なアイデアをなんとか正当化しようとしているのはわかるが、そもそも、あらゆる事態を想定する(P337)ような人工知能が、はたして未来を知っていると言えるのだろうか。それについての説明もあるにはある(P341)。だが、今後死ぬはずのない一億人の人間が死んでしまうなどの歴史的な変動を、些細なことだとどこまでも許容していけば、地球などなくなってしまっても関係ないし、宇宙が消滅したっていいことになる。別の宇宙で、同じことが起るわけだから……。
 未来を知るうえで問題にしたいのは、人工知能が些細なことだと切り捨てる部分であり、それを知らないというのであれば、人工知能は未来など知ってはいないことになる(個人的に、このパラドックスを考えるのは楽しかった。軽い頭痛は体験したが)。
 籘真流の決定論を、頭の中で必死に組み立ててみようとしたが、無理だった。それに、どう考えても、彼らは賭をしているのではなく、ガチンコ勝負をしているようにしか思えない。未来を知っていると主張する彼らが、必死に自分の想い描く将来を実現しようと、戦っている。彼らは、未来など知ってはいない(たぶん、籘真は未来を知っているのだろう)。
 他にも自称「未来を知っている人工知能」について書きたいことはあるが、ストーリーのネタバレになる可能性もあるので控える。
 ストーリーの根幹をなす人工知能の設定に最後まで納得がいかず、残念ながら最後まで物語に入れなかった。登場人物たちの言動に首を傾げる箇所や、細かな矛盾も数多くあり、いい作品とは評価できない

 以上のレビューを削除させていただきます。まさに、誤解に誤解を重ねておりました。
 籘真千歳氏にご迷惑をおかけしたことを心より詫びします。大変、申し訳ありませんでした。

2012年2月15日水曜日

読んでやった

田中慎弥著「共喰い」、読了です。
 山口県下関市を舞台に、女性に暴力を加えることでセックスの快感を得る父親を持つ主人公が、自分のなかにも同じような欲望を見つけ、悩みます。
 日頃、文芸作品など読みもしないのに、芥川賞受賞作品などを……、読んでやったよ。w
 どう読んでいいのかわからないので、自分なりの率直な感想を。

 非常に不快感のある気持ちの悪い小説ですね。文面から腐臭まで漂ってきそうな作品です。子供のころに嗅いだことのある、下水が流れこむ水路、その臭いですね。そして、まさにこの物語は、そういった場所を舞台に繰り広げられます。
 映画などの娯楽作品に必要な要素として、セックスとバイオレンスなんて言いますが、そういう意味でも、獣のように自らの欲望のために暴力的なセックスを繰り返す主人公遠馬の父親は、人間の真の姿のようでもあり、グロテスクで醜悪な読み手自身の本性を暴かれているようでもあり、刺激的でした。
 人の体面を覆っている薄皮のようなものを一枚一枚剥いでいったときに、最後に表出するのが遠馬の父親であり、暴力に抗いながらも円のセックスを受け入れ子供まで身ごもってしまう琴子や仁子だと思うのです。だとすると、彼ら彼女らの獣の部分を引き継いだ遠馬は、そういった呪縛から逃れようとする「人間」のようにも思えます。しかし、やはり彼のなかにも獣は潜んでいて、父親と女をめぐって喰い会う……。だから、「共喰い」なのかと。
 違うのかなぁ。(^_^;)
 ただ、仁子に生理が戻ってきた理由が、僕にはよくわかりません。どういうことなのか、すごく考えさせられたわけですけど──、どうしてだろ?w(やはり、いいかげんなレビューだ!)

 本書にはもう一編収録されています。
 そちらのタイトルは「第三紀層の魚」です。
 芥川賞がどういう基準で与えられる賞なのか知らないのですが、僕的にはこっちに賞をあげたい。
 周囲で無情にも移ろっていく現実が少年の目線で描かれていて、せつないですね。四〇半ばの僕の心も、ぐいぐい引き込まれました。w

2012年2月14日火曜日

リリエンタールの末裔

上田早夕里著「リリエンタールの末裔」、読了です。
 僕は上田の代表作「華竜の宮」がどうも納得がいかなかったため、上田の小説はちょっと苦手で手が出しづらかったんですよね。ところが、2010年2月「SFマガジン」掲載の「マグネフィオ」を偶然にも読んでみたら、すごく面白い。この中短編集は、その「マグネフィオ」を含む四作品が読めます。

 「リリエンタールの末裔」は、「華竜の宮」と同じ世界で繰り広げられるお話し。そして、僕はこの世界観に入っていけないために、やはり何も感じない。どうしてだろうなぁ。
 なぜこの物語に入っていけないのか、よくわかりません。(^_^;)(何といいかげんなレビューだ!w)
 人が、鉤爪を持つ手を、背中に生やすことに抵抗感がある──、からなのか?
 魚舟獣船もそうなんだけど、人がそのような外観になることを望むのか?と考えると、やはりそうはならないような気がするんですよね。些細な黒子の位置やそばかす、鼻の大きさや両目の距離を気にするような生物が、背中に鉤爪を生やしたり、グロテスクな魚舟になったりすることを受け入れられるのかと……。

 残り三編は面白かったです。「マグネフィオ」と「ナイト・ブルーの記憶」は、どちらも脳の認識にまつわるお話し。そのうち「ナイト・ブルーの記憶」は、無人の海洋探査機を、神経接続された人間が遠隔操作するといった作品で、操作する人間が、次第に海洋探査機に馴染み、あるはずのないセンサーから触覚を得たり、考えられないほどの鋭敏な聴覚を得たりします。
 これって、僕が車にも感じたことで、右足の脹脛の筋肉を動かす神経が、インテークマニホールドの吸入弁に直結されているような錯覚や、タイヤの表面にセンサーがついていて、路面の感触がわかるような感覚にも似ていると思うんですよね。
 一方再読となった「マグネフィオ」は、「ナイト・ブルーの記憶」に登場する<感覚を他人と共有する装置>を、さらに発展させた生体チップが登場します。解説にも書かれていますが、もしかすると、この二作品は世界観が同じで、その世界観に沿った作品がもっと書けそうな気もします。(できれば読んでみたい)この二作品、人の相互理解とは何なのかを考えさせられるたのしい作品ですね。

 四作品目「幻のクロノメーター」は書き下ろし中編です。タイトルから、なんとなく時間SFを想像してしまいましたが、いい意味でうらぎられました。歴史改変モノです。
 未知の物質が人の文明の歴史に関わることで、産業革命以前からのこれまでの歴史が大きく書き換えられます。未知の物質が関わった最初のエピソードとして、マリン・クロノメーターの開発を描いています。
 最後は、どのような流れにしろ、人は結局技術の開発をしていく生き物であり、人の興味の対象は自由に選択できると結びます。
 産業革命以前のロンドンを、クロノメーターの開発を間近で見つめた女性の視線で見事に描いています。実話を織り交ぜながら描くことで、この作品にリアリティのようなものを与えることに成功していると言えます。うまいですね。ただ、ちょっと気になった箇所がふたつあります。
 ひとつは、ハリソンが目を閉じて時計を組み始めたシーン。爆笑しそうになりましたが、あれって実話なんですか?
「見るんじゃない、感じるのだ!」
 心眼か?(^_^;)
 あるいは「盲目の時計職人」へのアンチテーゼか?
 時間があったら、調べてみます。実話なら僕の読み違え。実話でなく、上田の挿入したフィクションであれば、不要なシーンではないか?と思うのです。
 もうひとつは──。
 未知の物質であったとしても、それがある程度の量を確保できるなら、希少価値はあれども流通させることはできるので、大いに利用してもいいと思うのですが、エリザベスの身体からいつかその物体Xが出ていくかわからないのと同じくらいに、地球からその物体Xが突然いなくなる可能性もありそうで、そのとき人類はどうするのかなぁ、などといらぬ心配もしてしまいました。