2012年7月16日月曜日

円城塔という現象

 円城塔著「道化師の蝶」、読了です。
 いや、読了、とは言えませんね。なぜなら、さっぱり理解できなかったからです。w
 まったくわかりませんでした。
 「これはペンです」は、なんとなく理解できたものの、本作はさっぱり。こんなに理解できないと、作品を読むと言うよりは、文字を目で追っているだけのような気になってきます。
 物語の中に登場する旅の途中でしか読むことができなかったり、腕が三本ある人にだけ理解できたりする本のように、この作品にはある特殊な環境にいる、あるいは特殊な才能のある人間にしか理解できないような類の本のように思われます。
 こういうわからないものに、無理矢理意味を見いだしてしまえるほど、僕は夢想家ではありません。
 ただ、前回、金子邦彦著「カオスの紡ぐ夢の中で」の感想で書いたように、現象としての円城塔には興味があります。
 円城塔の書くような小説は、物語全体の中では突然変異のようなもので、たまたまそれを受け入れるような環境があったために、そのニッチの中で、円城塔の小説は生まれ続けている、そんな印象を持っています。あるいは、円城塔などという作家は本当はいなくて、巨大な小説を書くシミュレーション機械のみが存在し、その機械が僕たちの現実世界を実験場として利用しているような、そんな空虚な印象も受けます。
 意外に僕は夢想家なのかもしれません。(^_^;)

2012年5月28日月曜日

繰り返される相互作用

 金子邦彦著「カオスの紡ぐ夢の中で」読了です。
 『円城塔氏が渾身の解説を寄せる~』という本の帯に惹かれて買ってみました。
 円城塔が解説を寄せる?この違和感。w
 そうなのか。円城塔は、前衛と呼ばれるよくわからない小説を書くばかりでなく、解説をすることもできるんだ!(^_^;)
 金子邦彦の著書は他には「生命とは何か──複雑系生命科学へ──」を読んでいます。あの著書で、乱雑な成分を含み複製を繰り返す膜状のものの中に、やがて規則のようなものが生まれ、それがDNAのようなものになったのではないか?といった議論は、僕にとって非常に説得力を持つものでした。それまでに読んだドーキンスのDNARNA)が先に生まれたといったような生命観に比べて、金子の説を思わず採用したくなるほどに魅力的でした。複雑系というもののおもしろさにすっかりはまった瞬間でもあったわけです。
 たぶん、僕が複雑系の魅力を何も知らない状態でこの本を手にとってみれば、やはり何だかよくわからない本だったのでしょう。あるいは、円城塔の「これはペンです」を読む以前だったら、円城塔が解説をしている面白さはまったく理解できなかったのかもしれません。そういう意味で、僕とこの本はまさに「ダイナミックな相互作用」の渦中にあります。
 この本に収録された「小説進物史観」の中の、小説を書くプログラムと読者である人との関係のように、現実世界での読み物の評価にもカオスが関わり、この先読む予定の円城塔著「道化師の蝶」への評価に、非線形的な変動をもたらすのでしょう。
 僕がどれほど複雑系を理解できているのかは不明ですが、入れ子状になったこの本の構造自体も楽しく、また、円城塔の理解(あるいは作品の理解)という意味においても、非常に面白い本でした。

2012年5月11日金曜日

ビブリア古書堂

 三上延著「ビブリア古書堂の事件手帖~栞子さんと奇妙な客人たち~」、読了です。
 書店で見かけて、ちょうどラノベが読みたかったので買ってみました。
 本好きの女性で眼鏡、しかも巨乳(表紙から勝手に想像!)とくれば、自分のなかではあの紙使いの読子しかいない!と思っていたところに新キャラ登場です。
 いわゆるラノベっぽいノリを期待していただけに、いい意味で裏切られました。
 古本にまつわるお話しが、ミステリー仕立てで展開していきます。主人公の栞子は、足が不自由で人見知りが激しく、物静かな本好きな女性という、悪く言えば男の欲望を具現化したかのようなキャラクターなのですが、そういった媚びは感じられないので好感が持てます。このあたり、ラノベっぽくないんだよね。
 で、面白かったので続編の「ビブリア古書堂の事件手帖2 ~栞子さんと謎めく日常~」も買って一気に読んでしまいました。
 そして深まった謎が、一巻の表紙。
 あれは、栞子の母親の肖像画だったのか?
 しかし、背景には液晶モニタのようなものもあるし、どう考えても栞子の母親の時代とは思えない。一巻で五浦がはじめて目にした栞子の服装に酷似しているようですが、あのときはたしか髪をゆるい三つ編みにして結い上げていたはず。しかし、一巻の表紙を飾るのが栞子の母親というのはすこし不自然。ん~、どっちだろ?
 どちらにしても、各エピソードごとのミステリーとは別に、母親や栞子にまつわる謎も、ストーリー全体に絡んでくるようです。
 続刊が楽しみですね。

2012年5月9日水曜日

やがては出荷される少女たち

 今野緒雪著「マリア様がみてる フェアウェルブーケ」読了です。
 久々の新刊です。今回は、リリアンの教師にスポットが当てられています。
 「花物語」などもそうなんですけど、教師と教え子の関係は、この手の小説にとっては意外に王道なんですよね。実際問題、現実世界で女子高生と教師の関係がどうなのかはともかく、ファンタジー世界でのこういった妄想に浸るのは有りなのかと思っています。
 幼稚舎から大学までの一貫教育をずっとお嬢さま学校で受けていた女性が、そのままリリアンの教師になるということは、彼女はその世界しか知らない純粋培養お嬢さまであり、生徒たちが彼女らに、同質の匂いを嗅ぎ取ってもおかしくはありません。しかし、そういったお嬢さまであっても、やがては“出荷”されるわけであり、それが、リリアンの生徒たちに現実問題として突きつけられているかのようです。
 女性にモラトリアム期が生じたのは、女性が高等教育を受けられるようになってからであり、結婚までの準備期間が、彼女たちにさまざまな精神的な活動を与えたようです。
 今回の「フェアウェルブーケ」では、教師に対してさまざまな想いを、リリアンの生徒たちは巡らします。そして、教師たちは、やがて卒業し結婚するリリアンの生徒たちの将来を暗示しているかのようです。
 「花物語」で描かれる結婚が、辛く厳しいものだったのにくらべ、「マリア様がみてる」で描かれる結婚が、明るく希望に満ちているものであることが、男からすれば救われるのですが、やはりというか、なぜ?というか、祐巳ちゃんもすっかり三年生の紅薔薇さまになって、やがて卒業して結婚するなどと想像すれば、男とすれば寂しいなぁと思うわけです。とくに、男嫌いの祥子さまの将来は、心配ですね。w
 そんなふたりの、夏休みの過ごし方なども想像させられました。
 やはり、このシリーズ、面白いですね。次作も期待しています。

2012年5月8日火曜日

火星ダーク・バラード

 上田早夕里著「火星ダーク・バラード」読了です。
 偶然にも、チャイナ・ミエヴィル著「都市と都市」に引き続き、警察小説を読んでしまいました。そして、エンターテイメントとしてこの作品はすごく面白かったです。僕は上田の「華竜の宮」を最初に読んで、すこし取っつきにくい作家だと勝手に想像してしまっていたのですが、他作品はこんなにも面白いのですね。
 僕にとってこれは「戦う美少女」のジャンルに入れるべき作品です。薄幸の美少女に同情する中年男と、その男に恋してしまう少女。中年男が抱いてしまうファンタジーをそのまま小説にしてしまったような、かゆいところに手が届いている作品と言えます。(^_^;)
 ただ、すこし疑問点も。
 SF的なガジェットとしては、例えば火星で発見された生物のDNAなどが登場します。そのDNAを使って、アデリーンのような能力を持った子供が誕生するわけです。地球以外の何らかの要素が、ヒトをヒト以上の能力に改変してしまうといった設定は、なんとなく説得力がありそうですが、結局のところ、このお話しでは遺伝子の配列をすべて書き上げてしまうテクノロジーのある世界になっているため、火星由来の遺伝子は必要ないような気もします。
 人間の価値観のなかでの「進」化は、通常自然界が選択するような変化の取捨選択とは違って、恣意的な変化を選択してしまいがちです。人間の作り出した倫理観や理想論に沿った変化だけを、「進」化として認めたがる傾向にあるように思われます。実際には、人殺しを好むように変化することも、人殺しを好まない方向に変化することも、それが遺伝子型のなかに変異を認められたならば、どちらかが倫理的に間違っていても、両方とも進化なのですよね。
 ノーベル賞受賞者の精子を集め続けたあの人や、優秀などっかの民族の血だけを残そうとした誰かさんみたいに、グレアムの野望も潰えてしまうのかなぁ、などと、いろいろと想像させられた作品でした。

2012年4月24日火曜日

見てはいけないものを見て……

 チャイナ・ミエヴィル著「都市と都市」、読了です。
 久々に海外SFを堪能しました。
 ふたつの国の大部分が重なり合っていて、その国で暮らす人たちは、異国の人や建物、車やペットなどを見ないようにして生きています。そんなあり得ないような都市で起った殺人事件から、物語は始まります。以降、ネタバレ含みます。ミステリーですので、本編を先にお読みください。
 まさに奇想小説であり、最初に僕が想像したような、混ざり合ったイスラエルとパレスチナのようなものではなく(大森望の解説によると、そういったプランが実際に米国の政治学者のあいだであったらしい)、もっと荒唐無稽なものらしいとわかります。ミステリー仕立てのストーリーは、この荒唐無稽な都市で語られる都市伝説(さらに荒唐無稽な!)を巡り進行していきます。
 僕は、どこからかその都市伝説上のオルツィニーと呼ばれる都市が忽然と現われそうな期待で読み進めたわけですが、いい意味で裏切られました。物語は、この荒唐無稽な都市の常識の範疇で終始します。著者は都市が重なり合ってしまった原因には言及していないし、作中で過去に何があったのかの詳しい説明もなく、これらは読み手の想像に任されます。都市が重なり合った<クロスハッチ>部分では、異国である街を見ることはできず、互いに異国である人同士も見ることはできません。しかし、その人物を異物だと認識するためには、見なければならないわけで、そのため、このふたつの国では、見ていないようなふりをすることを義務づけられています。
 ただ、一般的な都市そのものが、もしかすると<クロスハッチ>したものかもしれないし、それを言えば、人の暮らしそのものが<クロスハッチ>したものかもしれない、そんなことも思ってしまいます。見てしまったのだけれども、見なかったことにしないといけないような……。人が生きていく中で、どれほどそういう事態があることか。あるは、そういう気遣いを求められる場合が、どれほどあることか。w
 この作品の異常さは、それが国家レベルで行なわれているところです。互いに気遣う両都市から抜けだし、主人公ボルルは最終的には<ブリーチ>に行きます。その結果、ボルルは集合の全体に対して自由になった一方、どちらの集合からも認識されない存在となってしまったわけです。いわば、幽霊のようなものです。画像編集ソフトのレイヤー機能のように、多重構造の階層を一段上ってしまい、ボルルは空気のようにふたつの都市に拡散したかのようです。その意味するところが、世捨て人のようでもあり、下層構造を俯瞰する霊のようでもあります。
 あるいは、意味などないのかもしれません。何かのアナロジーであることは、幻想や奇想には必要ないですからね。

2012年4月9日月曜日

法律遵守の海賊たち

 笹本祐一著「ミニスカ宇宙海賊(パイレーツ)」、読了です。
 アニメ観ていて気になった箇所がいくつかあったので、原作読んでみました。
 かなりな質量の太陽光帆船が、七日間という短時間でハビタブルゾーンにある惑星から恒星をまわって帰ってくるためには、どれほどの面積の帆が必要なのだろうか、などと考えながら読んでしまいましたが、このスペオペのノリというか、勢いというか、こういうの好きです。
 アニメでは、オデット二世号の背後で星が瞬いたり、真空中でハッチの開閉音が響いたりして、それがかなり気になってしまいました。電子戦で電力が足らなくことの理由ももっと欲しいと思っていたところ、原作ではきちんと書かれてあるのですね。それにバーベキューロールするオデット二世号にはりついた茉莉香が、恒星がオデット二世の陰に入った瞬間に見た天の川銀河も、たぶん、瞬いてはいないし、通信機から聞こえてくるヨット部の部員たちの呼吸音しか聞こえないという記述もあって安心しました。
 たぶん、実際に宇宙で行なわれる戦闘行為なんていうものは、想像以上に視覚的には地味なもので、アニメにするのって大変そうなんですよね。忠実に描いてしまうと、ひどく退屈で地味な作品になってしまいそうです。
 一定のルールのなかでだけ有効な免許を持ち(私掠船免状)、国家の決めたルールに従って営業するだけの団体を「海賊」と呼べるかどうかはともかく(もはや「賊」ではないような……。かなり悩みました。決められたルール以外の略奪行為なども行なっていれば海賊だと思えるのですがw)、海賊たちがじつはいい人、というか、あまり悪人ではない海賊というか、そんなお話しのなかの「海賊」にありがちな海賊たちのお話しです。
 しばらく付き合ってみたいと思います。

2012年3月7日水曜日

マリア様の本性

 これも、過去ネタです。
 ずいぶん前になるのですが、エドワード・O ウィルソン著/岸由二訳「人間の本性について」を読みました。
 この本の中で、ウィルソンは、同性愛について、以下のように述べています。
 抜粋します。

──ここから──

 ところで、同性愛はもしかすると、生物学的な意味では正常なのかもしれない。それは、初期人類の社会組織の重要な一要因として進化した、一種の明確な親切行動なのかもしれないのである。私の考えるところでは、この可能性はかなり強いものだと思われる。同性愛者たちは、人間の所有するわずかな利他的衝動のうちのなにがしかを遺伝的に担っている人々なのかもしれないのである。

──ここまで(エドワード・O ウィルソン著/岸由二訳「人間の本性について」ちくま文芸文庫P261より)──

 このあと、ウィルソンは「血縁選択説」を挙げて、同性愛だけではなく人間の性行為自体が、繁殖を目的とするものである以上に、人間関係のきずなを深めるための行為として重要であると主張します。
 この一節を読んでふと思い出した人物がいました。
 佐藤聖です。w (こういうのしか思い出さないオレって……)
 今野緒雪著「マリア様がみてる いばらの森」の中で、登場人物の佐藤聖は、久保栞に対する同性愛の強い想いに悩みます。そして、その悩みに回答を得ようと、様々な本を読みます。
 こちらも抜粋します。

──ここから──

 この気持ちは、いったい何なのであろうか。
 私は恋愛に関する小説を片っ端から読みあさった。どこかに私の気持ちを解説し、解決法を伝授してくれるものはないかと思った。でもその結果は、小説嫌いの人間を一人誕生させただけだった。
 どんな名作と讃えられた物語でも、自分の身に起きた現実の出来事の教科書にはなりえない。
 同性愛を扱った小説も読んではみたが、私の求める答えはどこにも記されてはいなかった。
 次に私は、生物やその生殖に関係する本を読み始めた。
 その結果思ったことは、私の体内の信号伝達装置はどこか壊れているのかもしれない、ということだった。子孫を残したいと考える遺伝子の策略にはまって男女の恋愛が始まるのならば、遺伝子を半分ずつ持ち寄って一つの生命を作ることのできない同性の私たちが、どうしてこのように惹かれ合わなければならなかったのか。その理由は、どうしてもわからなかった。

──ここまで(今野緒雪著「マリア様がみてる いばらの森」集英社コバルト文庫P240より)──
 
 佐藤聖も、上記のような本を読んでみればよかったですね。(^_^;)
 進化心理学などでは、こういった性的なマイノリティにも、なんらかの遺伝的な要素を仮定しようとするらしいのですが、考えてみれば、僕たちが普通に持っている友情とか愛情とかの垣根ってどこにあるのだろうかと考えると、そこには人間独自(あるいは他の動物も含まれるのか?)の性向があるのかもしれません。
 まったくの異性である祐巳ちゃんの祥子さまを思う気持ちやその逆、また、瞳子のツンデレに共感できる心を僕たちが持っているということは、そこに共通のプログラムのようなものを感じてしまいます。
 ヒトはどこまでが遺伝的でどこからが文化的なのか。その狭間にあるのが性的マイノリティの問題であり、デリケートな議論になると思われます。
 こういった曖昧な領域に科学がどこまで迫れるのか、非常に興味があります。カッコウの托卵行動など、明らかに遺伝的な獲得形質なのですが、当然のようにその発現の仕方は、ある遺伝子と一対一の関係にあるわけではなく、複雑なものです。性的マイノリティが遺伝的であるにしろ、その解明は非常に困難であるように思われます。まして、それが文化的な影響下にある生物の行動なので、困難さの度合いはさらに高まりそうです。

 それはともかく、今野先生、祐巳と瞳子、由乃と奈々のその後、書いてくれないでしょうかねぇ……。

2012年2月28日火曜日

アリシア人の導師は、複雑系の導師だったのか!?

 しばらく本が読めそうにないので、過去ネタでも上げておきます。
 もう何年も前になるのですが、ブルーバックスの都甲潔、江崎秀、林健司共著「自己組織化とは何か」を読んでいて「おや?」と思った一文がありました。
 一部抜粋します。

───ここから───

  物理の世界では、原子サイズの現象をミクロスコピック、人が実感できるサイズをマクロスコピックと呼ぶ。ミクロな世界は私たちには実感できないが、それよりももう少し大きく、マクロな世界よりもずっと小さい世界がメゾスコピックである。(中略)
  メゾスコピックな世界では、興味深い現象、ミクロからもマクロからも予測できない現象が生じる。(中略)
  物理学といえば、古くはガラス瓶の中の気体の状態や金属や土の塊など、巨視的な現象だけを取り扱う力学や熱力学のことであった。そして、原子など微視的な領域を取り扱う必要から、量子力学や統計力学が誕生した。明確に分断できる、この二つの物質の取り扱い方の中間に、メゾスコピック領域は存在する。そして、ミクロともマクロとも異なる現象が生じるということで注目を集めはじめたのである。

 ───ここまで───第5版194ページ~196ページ

 ってことなんですけども、この「中間領域が重要だ」というような考え方、どこかで読んだなぁと思ったら、アリシア人の導師(メンター)のセリフにそっくりなんですよね。
 アリシア人の導師は、レンズマン・シリーズに登場します。レンズマン・シリーズは、EE・スミスによって1930年代から40年代にかけて書かれたスペースオペラです。
 主人公のキム・ポール・キニスンは、人類で初めてグレーレンズマンを経て第二段階レンズマンになったレンズマンで、悪の組織ボスコーンと戦います。
 レンズマンにはそれを庇護するアリシア人、ボスコーンには彼らを支援するエッドア人と、それぞれ超越した知性を持つ存在が背後にます。
 壮大なスケールで描かれる本作は、まさにスペースオペラの原型と呼ばれるもので、バーゲンホルム駆動(無慣性航行)を駆使し、惑星同士をぶつけてしまう!なんてお話もあります。
 レンズマンに関する詳しい説明は他のサイトに任せるとして、本題に入ります。
 レンズマン・シリーズ4作目になる「レンズの子供たち」に、上記「自己組織化とは何か」の一文とそっくりな導師(メンター)のセリフがあります。
 まずは、その部分のあらすじを紹介します。

 第二段階レンズマンとなったキニスンの子供たち。
 その子供たちが、兄妹喧嘩をしている最中に、アリシア人の導師(メンター)が子供たちの中のひとり、クリストファーを自分の元に呼びます。
 兄妹喧嘩のことを導師(メンター)に怒られると思いこんでいたクリストファーですが、アリシアに到着すると、導師(メンター)から、自分が最終訓練を受けることを知らされます。
 導師(メンター)は、クリストファーに、「おまえ自身が現在の能力を発展させなければならないのだ」と告げ、さらに、その能力を発展させるためのエネルギーがあり、そのための技術を自分で獲得しなければならないと告げます。
 しかし、クリストファーは、自分の若さを理由に、導師(メンター)にヒントを求めます。
 導師(メンター)がクリストファーに与えたヒントとは……。

 以降、長いですが抜粋します。

──ここから──

「その点については、ごく広義の、もっとも一般的な用語でなら話すことができる。しかし、いまの協議の結果、与えられるのはただひとつのヒント──もっと正確に言うとひとつのイメージ──だけであることが明確になった。われわれの知識の範囲において、もっとも確実な検証方法は、宇宙万有の心象化である。科学が総体的に唯一のものであることは知っているだろう。すべてに通じる真の鍵は事象の継起の底流をなす法則を知ることにある。しかし、もしそれが純粋な因果律であるなら──すなわち、物事のある状態が、そのゼロに近い一瞬前の状態の不可避的な決着として与えられるなら──大宇宙がたどる全過程はそれが誕生した瞬間において永遠の未来にいたるまで決定されていることになる。初期の思索者の多くを絶望に追いやったこの周知の概念は、いまや誤りであることが明らかとなった。その反面、もし偶然がすべてを支配するなら、われわれの知っているような自然法則は存在しえない。よって、純粋な因果律も純粋な偶然性も、それだけでは事象の継起を律することはできないのだ。
 「したがって真理はこの両者の中間のどこかにあるに違いない。巨視的宇宙では因果律が優位にあり、微視的世界では偶然性が優位に立つが、両者とも数学的な確率の法則に従っている。最大の問題は、その両者のあいだ──中間領域、あるいは境界領域と言ってもいいが──ではどうなっているかということだ。誰もが知るように、あらゆる理論の有効性は、それによって得られる予言の正確さによって検証されるが、これまでで最高の思索者たちによれば、宇宙万有の心象化の正当性と信頼性は、その境界領域を構成する諸要素の定義の明確さと線形関数をなしている。その不確定な領域の完全な理解とは、すなわち無限の能力と統計的に完全な心象化を意味する。しかしそうしたことはどれも実現の可能性がない。なぜなら完全な知識の獲得には無限の時間が必要だからである。

 ──ここまで──EE・スミス著/小隅黎訳「レンズマン・シリーズ4 レンズの子供たち」創元SF文庫・初版/182ページより

 なんか似ていると思いません?(^_^;)
 アリシア人の導師は、複雑系の導師だったのか!?

2012年2月26日日曜日

紫色のクオリア

 うえお久光著「紫色のクオリア」、読了です。
 ラノベでSFが読みたい、というわけで、好評そうなこの一冊を選びました。
 他人がロボットに見えてしまう毬井ゆかりと、ゆかりをなんとか理解しようとしている波濤学、ゆかりの幼なじみの天条七美、一章は彼女たちのゆかりにまつわるお話しです。
 これは、なんと言うか……、すごいですね。
 他者との相互理解や自己のなかにある感覚的質感、あるいは他者のなかにあると信じている「心」の存在、などの危うさを描いていて、それがSF的な大嘘(w……、僕なりの褒め言葉です)とうまく絡んでいます。一章の「毬井についてのエトセトラ」だけでもお腹いっぱいでした(あとがきによると、この部分が短編として先に発表されたらしい)。
 そして次章の「1/1,000,000,000のキス」から突入する量子ワールド。
 ゆかりは留学してきたアリスに勧められ、「ジョウント」と呼ばれる組織に入り、転校してしまいます。そして、ゆかりの死。波濤学は、ゆかりを助けるために、多世界解釈的なさまざまなパラレルワールドを試します。
 某SFで読んだことのあるような大ネタ小ネタを使いながらもオリジナルのストーリーとアイデアを組み上げていて、「フェルマーの原理」を持ち出しながら、学が都合のいい未来に収束しようと試みる行は鳥肌ものでした。ここから、果てしない分岐がはじまり、ありとあらゆる状態の重ね合わせを体験するんだろうなぁ、と思ったらまさにその通り。その分岐はさらに過去へと広がり、あるいは「神」のようなものにもなりながら、学は必死に毬井を助けようとします。
 ラノベだからこその、あの結末であり、エンターテイメントとしても面白く、最後まで楽しめました。SFとしても良作だと思います。

2012年2月20日月曜日

謝罪の続きやお礼や、くすぶる疑問点について

 誹謗中傷というのは、根拠のない事を挙げ連ねて、他人をそしり、攻撃する行為のことです。そういう意味でも、事実無根の批判をAmazonにレビューとして書き、籘真千歳氏の作品を「いい作品ではない」などと評価した僕の行為は、誹謗中傷です。どう弁解しようが、言い逃れはできません。深く反省すると同時に、お詫び申し上げます。どこの誰ともわからないような人間から、あのような批判的なレビューを投稿されれば、その心労は容易に察せられるべきであり、軽率な行為であったと、深く反省しています。
 僕の投稿が誤解に基づいていたことは、先日、このブログに書きました。その誤解による事実誤認を含んだ投稿をAmazonのレビューより削除させていただきました。
 籘真千歳氏のブログで氏が指摘されているように、本文中での赤外線に関する言及は三箇所にものぼり、僕の指摘はまったくの誤認であると判明しました。また、人工知能に関する指摘も、十分納得のいくものであり、氏の言われるように、僕の思い込みです。
 人間が「人工知能が未来を知っている」といった間違った思い込みにふりまわされて人工知能を破壊するはずがない、という前提で読んでいました。僕の中でイメージしていた「人間」が、どういう生き物なのかはこの場合関係ありません。この世界の「人間」が、そのような愚かな人間(人工知能にバーナム効果を感じるような)であると書かれてあるのならば、その前提に沿って読むべきであったと思います。本文中で人工知能自身は、未来予測としか言ってはいません。ざっとではありますが、確認させていただきました。

 しかし、十分頭を冷やしたうえで、よくよく考えてみても、納得のいかない箇所もあるのです。
 僕は読解力がないのでしょう。もしかすると、以下の疑問点も、僕の思い込みによるものかもしれません。
 また、僕は籘真千歳氏に対して悪意を抱いたところで、なんの利益も得ない人間であり、作品に対して最初からケチを付けてやろうなどの敵意を持って読み始めたわけでもないことを断っておきます。ただ、Amazonのレビューやこのブログの文章から、そういった印象を与えてしまったことも事実であり、これについても反省しています。

 疑問点は、主に三つ(もっとあるにはあるのですが、「粘着」と言われそうなのでやめます)。椛子の「日本の屋久杉」発言と、「食料不安がなくなった」という記述、また、揚羽が鏡子から髪を撫でられた場面で「揚羽が、身体に触れる形で愛情を示されたのは初めてだったかもしれない」などの、いずれも籘真氏が僕への反論で書かれている箇所についてです。
 まず、椛子の発言ですが、僕への反論として籘真氏は、

>時系列として、かつて屋久島が日本の領土で会った頃に皇室へ寄贈された品物を、今は椛子が拝領して秘蔵している

 と書かれています。
 しかし、問題の箇所(前後含めて)を何度読み返してみても、「これは屋久杉という、日本の貴重な木でね」とあるだけで、籘真氏の言われるような意味は見つけることができません。これも、僕が読み落としている何かがあるのでしょうか?それとも、僕は、籘真氏が反論されているように読むべきものなのでしょうか?椛子が自治区の総督であるということを加味すれば、非常に微妙な発言に思えるのです。
 また、「食料不安がなくなった」について、籘真氏は、

>視肉はどこでも培養できるものではなく、途上国他への普及は途上にある、ということです。(これも株分けをしている最中、と作中で言及しています)

 と反論されています。しかし、僕の指摘しているP329で、「危機が顕在化しつつあった世界中の食糧不安から、人類を永久に開放した」と明記されているのも事実です。
 僕は、どちらを信じればいいのでしょう?たしかこのシーンは、揚羽の視点で書かれていたはずです。ということは、これは揚羽の思い込みであり、別のシーンでの視肉に関する記述のほうが正しいのでしょうか?

最後に、揚羽が鏡子から髪を撫でられた場面で「揚羽が、身体に触れる形で愛情を示されたのは初めてだったかもしれない」への疑問点です。
 籘真氏は、

>最初の茫然自失のときと、後のシーンでの「揚羽から見た」意味の違いを察してください、としか……。

 と、説明しておられます。
 疑問点と書きましたが、これは、たんなる主観の相違のような気もします。僕は、十分あの場面で揚羽が愛情を感じているはずだと思いました(これはたしかに思い込みかもしれません)。だから、最後の場面で「身体に触れる形で愛情を示されたのは、それが初めてだったかもしれない」とあったので、「ええっ?」となったのです。それでも、いや、鏡子が揚羽を抱きしめた行動は揚羽にとっては愛情と感じられる行為ではなかった、と言われるのであれば、僕は揚羽を理解できません。

 このブログにおいて、氏の作品を揶揄するかのような書き方をしたことについては、十分反省しています。それが、僕の誤解によって生じた事実無根の書き込みであったのなら、その書き込みを「悪意」ととられても仕方のない事です。いかに個人的なブログとはいえ、やってはいけないことだったと反省しています。
 しかし、籘真氏の反論に対しても、以上のような疑問が残っているのです。
 また、Amazonのレビューのなかには、星五つの高評価を与えながら「この作品に、一貫したストーリーは存在しないと言って良いでしょう」などのコメントを見かけます。これなど、小説を書く人間からすれば屈辱的な評価だと思うのです。(ものすごく一貫したストーリーがあるじゃん!!それに、一貫したストーリーがない作品の評価が星五つって、どういうことだ?)
 僕は、氏の作品には一貫したストーリーはあると書きました。伏線や謎があって、その謎が解き明かされていくミステリー構造になっていると思います。なぜ殺された男の身体に子宮があったのか?など、最後まで興味ありましたし、仮に僕の理解できる世界観であれば、すごく面白いと思ったのです。残念ながら、僕に理解できるものではありませんでしたが、それも僕の思い込みや読解力のなさが原因なのでしょう。

籘真千歳氏へ。

 僕への反論をブログで丁寧に書いていただいて感謝しています。どんどん間違った方向へ行ってしまうところでした。この場を借りて、お礼を申し上げます。

2012年2月17日金曜日

謝罪いたします

 僕のAmazonへの投稿に関して、謝罪です。
 僕は、籘真著千歳「スワロウテイル人工少女販売処」以下のように書きました。

 一貫したストーリーはある。だが、籘真は場面場面で都合のいい設定を書き込んでしまう悪い癖があるように思う。ある場面(P221)では、九州は日本ではないと書き、ある場面(P400)では屋久島を日本だと書いている(屋久島だけ日本なのか?)。また、ある場面(P261)では微細機械のために自治区では電波が使用できないと書き、ある場面では揚羽が携帯電話を使っていた(揚羽の携帯はどうやって通話するのだろう)。さらに、畑をやめれば飢えがなくなると語らせ(P195)、別の場面(P329)では視肉によって食料不安がなくなったと書いている。こういった箇所が多数ある(すべて書き出せばかなりな量になる)。いくらストーリーが楽しくても、これをいい作品とは評価できない。
 一番感動的な場面であろうと想像できる箇所(P511)でも、揚羽が鏡子から髪を撫でられ、身体に触れる形で愛情を示されたのは初めてだったかもしれない、と籘真は書いている。人を殺せなかったと泣いたとき、さんざん鏡子に抱きしめられたことを、揚羽は忘れてしまっている(やはり五等級だから?こんな場面でボケなくても……)。
 まだ籘真の作品は本作品しか読んでいないが、個性はいいものを持っていると思う。設定の緻密さを上げればいいものが書けるようになると思う。作者はまだ若いのだろう。他のレビューを読むとファンは籘真の作品に楽しさを感じている。今後に期待したいという思いを込めて、ひとりのSFファンとしてこの作品には星ひとつという辛口の評価を下したい。

 これについて、僕の誤解があったため、全文を削除させていただきました。
 籘真千歳氏ご指摘の通り、携帯電話は赤外線を使用しているとの記述があり、僕の主張はまったく、事実無根の誹謗中傷であったことを認めます。
 関連するブログ等も削除させていただきます。
 籘真千歳氏ならび、関係者の方々には大変ご迷惑をおかけいたしました。ここに謝罪いたします。悪意がある、ととられても仕方のない文章でした。

 また、人工知能に関する認識も、ご指摘のとおりです。

 籘真は、奇抜なアイデアを正当化しようと非常に多弁的になる傾向がある。だが、その多弁的な解説がさらなる矛盾を生み出している。
 未来を知っているふたつの人工知能が賭をする、という奇想天外なアイデアをなんとか正当化しようとしているのはわかるが、そもそも、あらゆる事態を想定する(P337)ような人工知能が、はたして未来を知っていると言えるのだろうか。それについての説明もあるにはある(P341)。だが、今後死ぬはずのない一億人の人間が死んでしまうなどの歴史的な変動を、些細なことだとどこまでも許容していけば、地球などなくなってしまっても関係ないし、宇宙が消滅したっていいことになる。別の宇宙で、同じことが起るわけだから……。
 未来を知るうえで問題にしたいのは、人工知能が些細なことだと切り捨てる部分であり、それを知らないというのであれば、人工知能は未来など知ってはいないことになる(個人的に、このパラドックスを考えるのは楽しかった。軽い頭痛は体験したが)。
 籘真流の決定論を、頭の中で必死に組み立ててみようとしたが、無理だった。それに、どう考えても、彼らは賭をしているのではなく、ガチンコ勝負をしているようにしか思えない。未来を知っていると主張する彼らが、必死に自分の想い描く将来を実現しようと、戦っている。彼らは、未来など知ってはいない(たぶん、籘真は未来を知っているのだろう)。
 他にも自称「未来を知っている人工知能」について書きたいことはあるが、ストーリーのネタバレになる可能性もあるので控える。
 ストーリーの根幹をなす人工知能の設定に最後まで納得がいかず、残念ながら最後まで物語に入れなかった。登場人物たちの言動に首を傾げる箇所や、細かな矛盾も数多くあり、いい作品とは評価できない

 以上のレビューを削除させていただきます。まさに、誤解に誤解を重ねておりました。
 籘真千歳氏にご迷惑をおかけしたことを心より詫びします。大変、申し訳ありませんでした。

2012年2月15日水曜日

読んでやった

田中慎弥著「共喰い」、読了です。
 山口県下関市を舞台に、女性に暴力を加えることでセックスの快感を得る父親を持つ主人公が、自分のなかにも同じような欲望を見つけ、悩みます。
 日頃、文芸作品など読みもしないのに、芥川賞受賞作品などを……、読んでやったよ。w
 どう読んでいいのかわからないので、自分なりの率直な感想を。

 非常に不快感のある気持ちの悪い小説ですね。文面から腐臭まで漂ってきそうな作品です。子供のころに嗅いだことのある、下水が流れこむ水路、その臭いですね。そして、まさにこの物語は、そういった場所を舞台に繰り広げられます。
 映画などの娯楽作品に必要な要素として、セックスとバイオレンスなんて言いますが、そういう意味でも、獣のように自らの欲望のために暴力的なセックスを繰り返す主人公遠馬の父親は、人間の真の姿のようでもあり、グロテスクで醜悪な読み手自身の本性を暴かれているようでもあり、刺激的でした。
 人の体面を覆っている薄皮のようなものを一枚一枚剥いでいったときに、最後に表出するのが遠馬の父親であり、暴力に抗いながらも円のセックスを受け入れ子供まで身ごもってしまう琴子や仁子だと思うのです。だとすると、彼ら彼女らの獣の部分を引き継いだ遠馬は、そういった呪縛から逃れようとする「人間」のようにも思えます。しかし、やはり彼のなかにも獣は潜んでいて、父親と女をめぐって喰い会う……。だから、「共喰い」なのかと。
 違うのかなぁ。(^_^;)
 ただ、仁子に生理が戻ってきた理由が、僕にはよくわかりません。どういうことなのか、すごく考えさせられたわけですけど──、どうしてだろ?w(やはり、いいかげんなレビューだ!)

 本書にはもう一編収録されています。
 そちらのタイトルは「第三紀層の魚」です。
 芥川賞がどういう基準で与えられる賞なのか知らないのですが、僕的にはこっちに賞をあげたい。
 周囲で無情にも移ろっていく現実が少年の目線で描かれていて、せつないですね。四〇半ばの僕の心も、ぐいぐい引き込まれました。w

2012年2月14日火曜日

リリエンタールの末裔

上田早夕里著「リリエンタールの末裔」、読了です。
 僕は上田の代表作「華竜の宮」がどうも納得がいかなかったため、上田の小説はちょっと苦手で手が出しづらかったんですよね。ところが、2010年2月「SFマガジン」掲載の「マグネフィオ」を偶然にも読んでみたら、すごく面白い。この中短編集は、その「マグネフィオ」を含む四作品が読めます。

 「リリエンタールの末裔」は、「華竜の宮」と同じ世界で繰り広げられるお話し。そして、僕はこの世界観に入っていけないために、やはり何も感じない。どうしてだろうなぁ。
 なぜこの物語に入っていけないのか、よくわかりません。(^_^;)(何といいかげんなレビューだ!w)
 人が、鉤爪を持つ手を、背中に生やすことに抵抗感がある──、からなのか?
 魚舟獣船もそうなんだけど、人がそのような外観になることを望むのか?と考えると、やはりそうはならないような気がするんですよね。些細な黒子の位置やそばかす、鼻の大きさや両目の距離を気にするような生物が、背中に鉤爪を生やしたり、グロテスクな魚舟になったりすることを受け入れられるのかと……。

 残り三編は面白かったです。「マグネフィオ」と「ナイト・ブルーの記憶」は、どちらも脳の認識にまつわるお話し。そのうち「ナイト・ブルーの記憶」は、無人の海洋探査機を、神経接続された人間が遠隔操作するといった作品で、操作する人間が、次第に海洋探査機に馴染み、あるはずのないセンサーから触覚を得たり、考えられないほどの鋭敏な聴覚を得たりします。
 これって、僕が車にも感じたことで、右足の脹脛の筋肉を動かす神経が、インテークマニホールドの吸入弁に直結されているような錯覚や、タイヤの表面にセンサーがついていて、路面の感触がわかるような感覚にも似ていると思うんですよね。
 一方再読となった「マグネフィオ」は、「ナイト・ブルーの記憶」に登場する<感覚を他人と共有する装置>を、さらに発展させた生体チップが登場します。解説にも書かれていますが、もしかすると、この二作品は世界観が同じで、その世界観に沿った作品がもっと書けそうな気もします。(できれば読んでみたい)この二作品、人の相互理解とは何なのかを考えさせられるたのしい作品ですね。

 四作品目「幻のクロノメーター」は書き下ろし中編です。タイトルから、なんとなく時間SFを想像してしまいましたが、いい意味でうらぎられました。歴史改変モノです。
 未知の物質が人の文明の歴史に関わることで、産業革命以前からのこれまでの歴史が大きく書き換えられます。未知の物質が関わった最初のエピソードとして、マリン・クロノメーターの開発を描いています。
 最後は、どのような流れにしろ、人は結局技術の開発をしていく生き物であり、人の興味の対象は自由に選択できると結びます。
 産業革命以前のロンドンを、クロノメーターの開発を間近で見つめた女性の視線で見事に描いています。実話を織り交ぜながら描くことで、この作品にリアリティのようなものを与えることに成功していると言えます。うまいですね。ただ、ちょっと気になった箇所がふたつあります。
 ひとつは、ハリソンが目を閉じて時計を組み始めたシーン。爆笑しそうになりましたが、あれって実話なんですか?
「見るんじゃない、感じるのだ!」
 心眼か?(^_^;)
 あるいは「盲目の時計職人」へのアンチテーゼか?
 時間があったら、調べてみます。実話なら僕の読み違え。実話でなく、上田の挿入したフィクションであれば、不要なシーンではないか?と思うのです。
 もうひとつは──。
 未知の物質であったとしても、それがある程度の量を確保できるなら、希少価値はあれども流通させることはできるので、大いに利用してもいいと思うのですが、エリザベスの身体からいつかその物体Xが出ていくかわからないのと同じくらいに、地球からその物体Xが突然いなくなる可能性もありそうで、そのとき人類はどうするのかなぁ、などといらぬ心配もしてしまいました。

2012年1月31日火曜日

いろいろ楽しめた!

大森望・日下三蔵・山田正紀編「原色の想像力」、読了です。
 第一回創元SF短編賞の最終選考に残った九編と受賞作作家による書き下ろしを集めたアンソロジーです。

まず、高山羽根子著「うどん キツネつきの」から。
 得体の知れない生き物を拾った姉妹が、その生き物とともに歳月を重ね、大人になっていくという物語。拾った生き物の正体は、ずっと明かされないままストーリーが進んでいくので、ちょっとモヤモヤが残りました。w
 なんとなくだけど、テリー・ビッスンばりのほら話のようでもあり、楽しめました。
 ただ、ラストで和江が何をどう思ったのかは不明。わかる人にはわかるのでしょうか?僕にはさっぱりでした。(^_^;)

 端江田仗著「猫のチュトラリー」
 ミャウリンガルの発展型をインストールされたケアノイド(介護用のアンドロイド)が、猫と人を間違うお話し。ほのぼの系のSFのようでもあり、他者というものについて考えさせられるようでもあり、なかなか楽しめました。

 永山驢馬著「時計じかけの天使」
 この作者は小説慣れしていますね。主題がしっかりしていて、何を書けばいいのかわかっているという印象です。うまいですね。

 笛地静恵著「人魚の海」
 隕石の落下が生態系を変えてしまった世界を描いている──、ように思えます。その世界があまりに奇異で匂うように官能的。いい意味でぶっ飛んでいます。
 多少読みづらい文章だと感じたのですが、その色濃い特徴が、この作品の世界観にマッチしていて、独特の雰囲気を作り出しています。いろいろ刺激される作品でした。

 おおむらしんいち著「かな式 まちかど」
 ええ?これもSFなんですか?w
 でも、笑いました。楽しい作品です。こういうのも、アリかなぁ。(^_^;)

 亘星恵風著「ママはユビキタス」
 これもいいですね。ここまで壮大な話になのに、親子の話になっていて、その濃密な関係が主人公の孤独感を浮き立たせているようにも思えます。

 山下敬著「土の塵」
 ループものの時間SFですね。これはSFの古典だ。うまいですね。

 宮内悠介著「盤上の夜」
 これはおもしろかった!手足を失った女性が、囲碁の局面に自分の四肢の延長を知覚してしまうというお話し。囲碁がわからない僕にも十分楽しめました。他作品があれば、それもちょっと読んでみたいですね。

 坂永雄一著「さえずりの宇宙」
 う~ん、これは、読者に負担を強いる小説だなぁ。なんとなく言いたいことはわかるけど、もうすこし説明的な部分も欲しいかも。疲れました。w

 松崎有理著「ぼくの手のなかでしずかに」
 数学者の話だったので、そっちに重きが置かれているのかと思えば、長生きするか繁殖するか、というテーマだった。サーチュイン遺伝子みたいなものを想像しながら読んでみましたが、ちょっと肩すかしを食らったようでもあります。

 さて、このアンソロジーには、巻末に第一回創元SF短編賞の最終選考座談会というのが載っていて、個人的にはかなり笑わせていただきました。
 そして、僕も全然知らなかったのですが、巨大化する女性フェチとも言うべきGTSというジャンルがあり、まさに「人魚の海」の著者である笛地静恵さんが、その筋では有名な方だということで、びっくり。そんなフェチがあったのかぁぁっ!
 あと、高山羽根子著「うどん キツネつきの」は誰が読んでも、「わからないもの」なんですね。(いい意味で)(^_^;)
 たしかに、頭の中を引っかき回されるような刺激はありました。三姉妹同時にペットの名前を「うどん」と答えるシーンなど、吹き出してしまいましたので。うどんってなんだろうと思いながら読み進めたので、名前が「うどん」だったのかぁぁっ!みたいな。
 こういうの、面白いですね。最終選考に残らなかった他の作品も読んでみたい気がします。

2012年1月16日月曜日

約束の方舟

瀬尾つかさ著「約束の方舟」、読了です。
 ハヤカワ文庫さん、ここ最近、意識的にラノベ作家さんを起用されているようで、その流れに僕もすこし付き合ってみたいと思います。
 瀬尾つかさのラノベは、一冊も読んだことがない(すいませんw)ので、ラノベとの比較はできないのですが、ずいぶん可愛い小説だなぁ、というのが感想です。

 あらすじ。
 主人公シンゴは、百年にわたって旅を続ける多世代恒星間航宙船タカマガハラIIで暮らす少年。航宙船の船内では、人々はベガーと呼ばれるゼリー状の生物と共存している。旅は終わりに近づいていたが、その昔ベガーと戦争した大人と、ベガーを友だちのように感じている子供のあいだで、小さいながらも意識のズレが生じ始めていた。

 たぶん、ハードSF志向の作家が書くと、宇宙船の構造や減速のタイミングにこだわるのだろうけれど、そういうものは異星人のテクノロジーということですべて丸投げしてしまって、そこで暮らす少年や少女の描写に力を入れる、というのも、SFのひとつのカタチなのかもしれません。
 子供と大人の価値観が大きく食い違っている社会というのは、たとえば、バブルを体験した大人と、就職難の時代に生きる若者が共存する現代のようで、その食違いのようなものがとても面白かったですね。
 個人的な不満を言わせてもらえれば、テル=ウィルトトには、テル成分をずっと維持させて欲しかった!そして、マザー・ベガーの記憶が戻ると同時に、テルは完全なヒトへと変身可能になる!ってやって欲しかったんですよねぇ。そして、完全無欠のロリキャラ完成!!
 って、それじゃラノベか?(^_^;)

2012年1月9日月曜日

今年の一冊目

 瑞智士記「展翅少女人形館」、読了です。
 ヒトの子宮で育まれる命が、ヒトであることを辞め、球体関節を持った人形になってしまう。そんな未来を描いています。
 主人公たちは、そんな世界にあって、めずらしくヒトとして生まれてきた少女たちであり、その少女たちが織りなす人間関係やフェティシズムを、退廃的に、そして官能的に描いています。
 また、物語の舞台を、修道院という閉鎖された空間にすることで、ヒトの関係性をより濃密なものとし、歪で奇怪な方向へ推し進めることに成功していると言えます。
 ミラーナのバレエのシーンなど、僕には到底書けそうもない描写力なので、ちょっとうらやましいですね。(^_^;)
 これ、読んでいて疑問に思ったのが、生まれてくる人形は、みんな少女の形をした人形なのだろうか?ってこと。
 現に、男の子の姿をしたビスクドールはあって、もし、「展翅少女人形館」のフローリカのような、人形に釘を刺すことで歓びを感じるような趣味の女の子の場合、対象となる人形は女の子タイプと男の子タイプ、どっちがいいんだろうか?などと考えてしまったわけです。
 でも、「少女人形館」だから、男の子タイプは修道院にはないのかもしれませんね。

2012年1月2日月曜日

カールは二度、ウナギで悪戯したのか?

 あけまして、おめでとうございます。
 今年は、いい年でありますように。

 新潮文庫村岡花子訳、モンゴメリ著「赤毛のアン」シリーズ全一〇巻、読了です。
 昨年、名作アニメ「赤毛のアン」を観て以来、ずっとこのシリーズを読んできたわけなのですが、なんとか、昨年内に読み切ることができました。
 「アンの娘リラ」の巻末にある村岡の解説によると、本来、「赤毛のアン・シリーズ」というのは、八冊目の「アンをめぐる人々」をもって終了するらしく、たしかに、九冊目の「虹の谷のアン」では、メレディス牧師の子供たちが主人公だし、一〇冊目の「アンの娘リラ」でも、アンは脇役に徹しています。※1
 人は歳をとると悲しみも増えるもので、その悲しみはアンの身にも降りかかります。育ての親であるマリラを亡くし、世界大戦は次男のウォルターも奪います。
 アンの人生をハッピーエンドとして完結させたいのであれば、七冊目の炉辺荘(イングルサイド)のアン」で読み終えてもいいのではないか!
 ただ、あるエピソードから、モンゴメリは、炉辺荘のアンを書いた時点で、その後の構想をすでに持っていたことがわかります。
 「炉辺荘のアン」で生まれた長男のジェムが、子供時代、犬に恵まれなかった、というエピソードがあったと思います。
 そのエピソードでモンゴメリは、将来的にジェムが忠実な犬を飼い、その犬の献身的な愛情はグレン村の歴史に残るほどだったと書いている通り、「炉辺荘のアン」を書いた時点で、モンゴメリはすでに、世界対戦中の話を書くことを決めていたのですね。※2
 つまり、増えていく悲しみをアンが背負う、そういった辛い話も含めて、このシリーズなのかなぁ、と思うわけです。「赤毛のアン」のラストも、そんなにハッピーエンドじゃなかったですし。
 また、シリーズ最初の「赤毛のアン」が出版されたのが1908年。すでに三〇年以上経ってから書かれているシリーズであり、モンゴメリ自身の心の変化も反映されているのかもしれません。
 このシリーズ、登場人物の数がものすごく多く、「良く書いたなぁ」と思うのですが、メレディス牧師の次男カールについて、ちょっと気付いた箇所が……。
 「虹の谷のアン」で、鰻をカー夫人の馬車に投げ入れるといった悪戯をしたカール。そのカールを、父親のジョン・メレディスは、鞭で打とうと決意するのですが、結局、カールの目が死んだ妻と似ていると気付いた牧師は、鞭で打つことはできませんでした。※3
 ところが、「アンの娘リラ」では、メレディス牧師はウナギで悪戯したカールのことを一度だけ打った、とあります。※4
 え?カールは、あの後で、またやらかしたのか?
 いや待て。
 カールの目が死んだ妻の目に似ていること気付いた、とあるので、やはり「虹の谷のアン」のときの、あのエピソードを言っているのだろと思われます。
 僕の想像では、牧師が、自分の息子を鞭で打とうと決意したこと自体に罪の意識を持ち、記憶の中で、息子を鞭で打ったことにしてしまったのではないか?と思うのですよね。
 つまり、牧師の中の罪悪感が、記憶を書き換えてしまったのです。
 うん。
 そういうことにしよう!(^_^;)

1 wikiによると、この分類方法にも何種類かあるらしく、モンゴメリ自身は「アンをめぐる人々」をシリーズに入れたくなかったらしい。
2 「炉辺荘のアン」が書かれたのが1939年。最初の世界大戦が1914年から1918年。つまり、モンゴメリは戦後になって、「炉辺荘のアン」という戦前のエピソードを書いている。
3 「虹の谷のアン」新潮文庫429ページ参照。
4 「アンの娘リラ」新潮文庫297ページ参照。