2011年11月24日木曜日

包括適応度を理解するオオスズメバチ

 百田尚樹著「風の中のマリア」、読了です。
 オオスズメバチの一生を、徹底的に擬人化して描いています。しかし、擬人化されていても、彼女らはあくまでもオオスズメバチです。主人公のワーカー、マリアは、自分たちの妹のために、毎日狩りに出かけ、縄張り争いをして、せっせと日々働きます。
 どうしてわたしたちは子供を産めないのか、と悩み、何のために生きるのか、と哲学者のように考えるオオスズメバチ。そして、いきなり染色体やゲノムの話を始め、ハチやアリなどの社会性昆虫に見られる半倍数性の性決定について、オオスズメバチが解説(!)を始めます。さらに、その半倍数性による遺伝子の分配確率から、ハミルトンの包括適応度にまで話が進みます。
 たぶん、オオスズメバチの世界にも、ダーウィンやメンデル、クリックやワトソンのようなハチがいたのでしょう。それに、たぶん、ハミルトンやドーキンスも……。(^_^;)
 オオスズメバチのワーカーたちは、血縁度の計算をしながら、妹たちを育て、女王バチの世話をし、身を呈して巣を守っている──、わけではないので、オオスズメバチ自身に、この包括適応度の解説をさせるのはどうかなぁ?と思ったのですが、女王バチがオスを産む場合と、ワーカーがオスを産む場合は、ワーカーから見てどちらが包括適応度が有利になるかなんて、解説がなければ普通わかりませんよね。だから、わざわざオオスズメバチに解説させたのでしょう。
 ただ、「女王バチ」というネーミングにも、人間のバイアスがかかっていて、はたして女王バチは本当に女王のようにその巣の中に君臨しているのかは、大きな謎です。女王は、ワーカーたちをフェロモンで支配しているかもしれませんが、ワーカーによって彼女たちの姉妹を強制的に生み続けさせられている、とも言えるように思います。(女王─ワーカー間コンフリクト)女王バチの最後は、それを物語っています。ワーカーは、女王にオスを産ますよりは、自分たちで産もうとしたくらいですからね。
 性決定メカニズムが半倍数性の場合、女王バチやワーカー、オスとの関係が複雑でわかりにくいものになります。この本は、血縁度の解説を交えつつ、彼らの関係をわかりやすく解説していて、社会性昆虫の理解に役立つのではないかと思います。

2011年11月14日月曜日

プランク・ダイヴ

 グレッグ・イーガン著「プランク・ダイヴ」、読了です。
 日本オリジナルの短編集であり、どの短編も硬質なハードSFという読み応え十分な一冊でした。
 短編の中でも、数学におけるプラトンのイデア論的実在主義をSF的手法で表現している「暗黒整数」は、なんか、もうすごいの一言ですね。数学的公理の違った別の世界が、この世界と隣り合って実在し、常にこちら側の世界(あるいはあちら側の世界)に影響を及ぼそうとしている。それは、つまり数学的公理によって示される数学が実在的であり、決して数学とは空虚な数字遊びではないということを意味しています。ただ、すこし視点を変えれば、こちら側の数学的公理を脅かすものが、例えば宗教であったり、思想であったり、ときには政治哲学であったりして、そういうものがあちら側の数学的公理であり、常にこちら側の数学を浸食しようとしている、というふうにも読めてしまいます。(イーガンはこんなことを書いてはいない、と十分承知している。僕の頭の中でのお遊びということで、お許しください)
 「ワンの絨毯」は、長編「ディアスポラ」の一部なのですが、長編に組みこまれるときに、多少書き直されているようです。それでも、ワンの絨毯内部で演算されている内部を想像したときに、「では、そこで思考しているものは何者なのか?」といったような意識の問題や、生命というものの定義などをあらためて考えさせられる作品になっています。
 「プランク・ダイヴ」は、正直言って冒頭の素粒子の話から、何を言っているのかさっぱりわからなかった作品です。(^_^;)
 サハロフという科学者から一世紀後、クマールという人の打ち出した理論とあるので、たぶん、イーガンお得意の架空物理学だと思われます。(サハロフは実在する核物理学者のようですが、クマールは……?w)その理論を実証するためには、馬鹿馬鹿しいほどの高エネルギーが必要(たぶん、ハイゼンベルグの不確定性原理がはたらくからだろう。架空物理学なのでなんとも言えないけれど)で、ポリスの住人たちはその理論の検証のためにプランクスケール(最小の長さのスケール、とあるので)となって、ブラックホールにダイヴしようとするわけです。(あってますよね?w)
 ところが、ブラックホールにダイヴし、事象の地平線を通り抜けてしまうと、地平線の外とは因果関係を保ち得ないので、新たにわかったことも、地平線の外には知らせることもできない、となってします。
 ただ、プランク・ダイヴしたポリスの住人たちは、地平線の向こうで、無限に演算することが可能となったため、もしかすると将来、地平線の外側に向かって情報を伝達する方法を見つけ出すかもしれない、という結末に至ります。
 また、彼らの偉業を後世へ伝えようとする伝道者のような人物が登場して、プランク・ダイヴという事業そのものを曲解し、脚色してまで、物語として保存しようとするのですが、面白いことに、その行為をイーガンは冷ややかに否定してしまいます。もうすこし、物語の伝道者を肯定的に描いてもよかったと思うのですよね。だって、イーガン自身、物語を書いているわけなのですから。いや、違うかな?物理の探究は、それを語る人によって言葉で語られるようなものではなく、純粋に数理の世界である、ってことだろうか?うむむ、でもそれだと、イーガンのようなハードSFこそ不要なものとなりそうな気がするのですが……。

2011年11月1日火曜日

子供を性の対象とする人たち

 香月真理子著「欲望のゆくえ 子供を性の対象とする人たち」、読了です。
 何度も書いていますが、僕はロリコンです。
 とくに、一〇歳から一四歳ころまでの少女に性的な魅了を感じてしまいます。これが病気であるのかどうかはともかく、人の理想的な性にはある程度の変態的な逸脱があり、その嗜好や空想を規制することはできません。そういったことを踏まえ、また、そういった人がいることを事実して受け止め、彼ら(僕も含めて)を否定しないというスタンスで香月は取材を敢行しているようです。
 自らも子供時代に性被害にあい、それによって少なからず苦悩したという香月の経験が、こういった取材への情熱となっているようです。ただ、サブタイトルにもあるように、この取材の目的は、子供を性の対象とするということはどういうことなのか、という命題的なものへの解答を指し示すのではなく、あくまでも、子供を性の対象とする人たちにはどのような種類があるのか?という、いわば博物学的な羅列に終始しています。
 僕の私的な意見を述べさせてもらえるならば、香月が網羅した子供を性の対象とする人たちには、犯罪者とそうでない者の区別が無く、あたかも、犯罪の動機と倒錯の根源が同一であるかのように書かれているのは問題だと思います。
 大人の女性にも興味がありながら、その代替物として子供を傷つけることと、子供に性的な魅力を感じることは違うことです。香月自身の取材にもあるように、小児性愛者が踏みとどまれずに一線を越えて犯罪に走ってしまう原因は、性的な欲求もあるのでしょうが、希薄な人間関係であったり、金銭的な行き詰まりによる刹那的な衝動であったりするようです。それは、小児性愛者だけではなく、犯罪者全般にも言えることなのではないでしょうか。
 人を殺したいくらい憎んでしまうことは誰でもあることです。でも、本当に殺してしまうのか、手前で踏みとどまるのかは大きな違いです。電車の中で、ミニスカートの成人女性の太ももに魅力を感じたとしても、それに触れてしまうことと、魅力を感じたままおわることとは違います。この場合の痴漢行為の原因が、成人女性への性的な欲望であるならば、成人女性へ性欲を抱くことは犯罪であり、ケアを必要とする心の病気なのでしょうか?
 多くの日本人は、たとえ本人が否定しようともロリコンであると僕は思っています(多くの成人男性は否定するだろう)。テレビに登場するアイドルの年齢や容姿、氾濫するアニメやマンガなどに描かれる少女の幼さから推測(※1)すると、女性も含めて(※2)、日本人全体が幼さに萌え、可愛さに性的な魅力を感じています。子供を可愛いと思うことは、少なくともこの国では正常な嗜好であり、マイノリティではありません。
 しかし、可愛いと思うことと、彼ら彼女らをじっさいに傷つけてしまうことは違います。

1:アニメなどによる作画に、左右の距離の離れた眼球、小さな口や未発達なアゴ、顔の上下方向の中心より下側に配置される目鼻など、ベビーシェマが多く見られる。また、そういったベビーシェマを持つ女性に性的な魅力を感じていることは、一八禁の同人誌などからも伺える。

2:増淵宗一著「リカちゃんの少女フシギ学」や蔵拓也著「美しさをめぐる進化論 容貌の社会生物学」などによる著書より、そういった答が導かれる。女性自身が幼くありたいと望んでいるかのようだ。