2011年10月25日火曜日

「自動車をつくる」という行動戦略に遺伝子がある??

 サルなど動物の売春行為について調べていてたどり着いたウエッブサイトです。

http://homepage2.nifty.com/anthrop/selfish_gene.html

 「利己的な遺伝子」を批判されているようですが、反論があります。
 上記URLにて、榎本知郎は、『たとえば、「自動車をつくる」という行動戦略があったとしよう。といったような仮定から議論をはじめられています。しかし、人が自動車を作り始めたのはここ百数十年ほどまえからであり、そういった遺伝子があるはずがないと明らかであるのに、なぜそのようなあり得ない仮定から議論を始めるのか、謎です。人の行動パターンひとつひとつに対応するような遺伝子(例えばブログを書く遺伝子とか w)があるはずがなく、この議論がいかに空論であるかわかります。
 話の切り出し方として、例えばビーバーのダム造りやカッコウの托卵行動など、その動物特有の生得的な行動とされている事例が多くあり、この議論の場合、そのような行動ひとつひとつと遺伝子の対応を述べて批判した方が妥当であるように思えます。
 人の行動には文化的側面が多く影響していて、それが生得的なものかそうでないかの判定は難しいものとなっています。ニホンザルの、サツマイモを海水で洗って食べるような行動が、文化的であることは明らかなのですが、その文化継承を可能にした脳の発達、あるいはその行動に関わるすべての器官の進化は遺伝子によるものでしょう。
 「自動車を作る遺伝子」などの仮定は、「サツマイモを洗う遺伝子」などと言っているようなもので、まったく無意味な仮定です。
 たしかに、「托卵行動」をする遺伝子が、「カッコウのDNAの、こことここにある!」といった研究は、『母性遺伝するミトコンドリアDNA に違いが見出されたことから、カッコウの托卵系統(宿主特異性)は、雌側を通してのみ維持されている可能性が高まった。といった程度のことしか明かされていないわけで、榎本の言うように、『つまり、完璧な複雑系なのである。「戦略遺伝子」だけを行動現象から切り取ることはできないし、正確な因果関係を知り得ない』のかもしれません。しかし、托卵行動を決めるいくつかの遺伝子(前述のようにどれだかは、わからないが)は明らかに遺伝しているし、その遺伝によって、カッコウが選択する宿主の傾向が決定して、托卵行動が成功するか失敗するかといった適応度に関わる行動にも影響を及ぼしています。
 また、『解のある方程式はないということは、進化の結果としての生物の状態が、行動戦略論で仮定する「最適値」であるかどうかはわからない、ということを示している。ということなのですが、それはあたりまえです。だって、僕たち人類を含めた多くの種は、それぞれが占めている生物学的なニッチの中に、「最適値」を持って君臨しているわけではないからです。僕たちを含めた多くの種は、そのニッチの中で、変化(進化)の過程に生きているに過ぎず、わずかに他の種よりも繁殖に有利なだけです。それこそ複雑系が向かう途上にあるわけで、進化の最終結果として現存種が生きているわけではありません。これって、忘れがちなんですよね。(^_^;)
 じつは、僕も榎本とは違った理屈から「利己的な遺伝子」への懐疑的な思いはあります。生物の行動を決定づける基本的な構造物が遺伝子であるといったような仮定は、遺伝子を捨ててでも数を増やそうとする細菌のふるまいは説明できません。細菌は、あたかも脂肪酸の膜で覆われた複雑な環境を、ただふたつに増やしたいと永遠に願い続けているようにも思えるからです。利己的な遺伝子という概念があてはまる真核生物は、ミトコンドリアとの共生によってなんらかの束縛を受けてしまい、利己的な遺伝子のような戦略を取らざるを得なくなった生物であるようにも思えます。そう考えれば、生物の純粋な欲求とは、遺伝子の伝達ではなく、細胞の増殖にあるように思えるのです。そのために、細胞は分裂に必要な遺伝子だけを利用したいのではないか、と。この考え方に基づけば、たまに真核生物の取り決めに反して増殖し始めるガン細胞が、個体の死とともに淘汰されてしまう理由もなんとなく理解できるように思いませんか?

 最後に。
 べつに、実際に遺伝子が望んでいるわけでもなく、細胞が願っているわけでもありませんので、誤解なきように。(^_^;)
 また、『』内は引用文です。
 カッコウの托卵行動に関する引用は、

http://wwwsoc.nii.ac.jp/osj/japanese/katsudo/taikai/2004Nara/sympo/S4.pdf

 上記URLにあるpdfファイルからのコピペです。

2011年10月21日金曜日

市場原理に従う代理出産ビジネス

 大野和基著「代理出産 生殖ビジネスと命の尊厳」、読了です。
 代理出産、とくに、夫婦のうち、夫だけの精子を使い、代理母の卵子と人工授精させるような代理出産の場合、それが浮気の結果できた子供を引き取るようなものだ──、といったようなことを、代理出産を依頼した側の夫が感じているというのが、なかなか興味深い話でした。
 たしかに、この代理出産による遺伝子の受け渡しの構造のみを見れば、そうなのかもしれません。
 妊娠は、元来、性行為によって男性が女性のヴァギナにペニスを挿入する、という手段を踏まなければ不可能でした。それが科学技術の進歩で、それ以外の方法でも可能になったわけです。僕には、この性行為を伴わない妊娠こそ、人の盲目的な倫理観に繋がっているように思えています。
 妻は、夫が浮気をすることは許せなくても、精子を提供して、他の女性を妊娠させてしまうことは許せてしまう。これは、進化の道のりの中で得た、人の「裏切り者を見つける能力」の限界を超えているからであろうと想像できます。
 精子だけを他の女性の体内に注入する男性など、これまでのホモ・サピエンスの歴史の中ではあり得ませんでした。そこに性行為や快楽といった、遺伝子の交叉にかならずつきまとっていた行為や感情はなく、機械的に遺伝子の受け渡しがおこなわれるだけです。そういった行為を、背信行為と認識するだけの能力が、僕たちの心には備わっていないのでしょう。
 しかし、遺伝子の受け渡しの構造だけを見れば、それはあきらかに妻以外の女性を配偶者として選んだということであり、浮気と同じ構造をしています。しかし、実際、そういったやりとりがおこなわれたとしても、僕たちは、その事実について盲目的な倫理観しか持ち得ません。
 これは、体外受精による受精卵を使った代理出産にも、同じようなことが言えるのではないでしょうか?
 妻以外の女性の体内に、夫と妻の受精卵を植え付けるような行為は、人類の長い歴史の中でも無かったことです。そういった行為に、なんらかの感情を抱けるような心の構造を、僕たちは持ち得ていないのでしょう。それが生命工学に対して、僕たちの倫理観を盲目にしている一番の理由のような気がします。
 他の女性の体内に受精卵を植え付けるような行為には、なにも感じないが、直接、夫が他の女性のヴァギナにペニスを挿入することには直感的に激しい怒りを感じる──。その理由は、進化的な道のりの中で、人がどのような行為を背信行為として認識していたのかによるのでしょう。この、人がどう認識していいのかわからないような行為が、代理出産であり、人工授精や体外受精といった生命工学です。
 僕はこの本で、代理出産ビジネスというものが、すでに世界規模でスタンダードなものになりつつあるという事実を初めて知りました。
 先進諸国の比較的裕福な人たちが、インドなどで比較的安く代理出産を依頼するという、代理出産のアウトソーシング化にまで発展しているという事実に、少なからず衝撃を受けました。
 妊娠して出産するという行為が、労働であり、その労働市場が市場原理に動かされているのであれば、男性が女性との性行為を望み、女性側も利益を得ようとする売春行為もまた、立派な労働であるように思われます。
 このビジネス化された代理出産と売春との違いは、性行為や男性の快楽を伴っているかどうかの違いであり、女性の肉体的な負担(そして精神的な負担も!)は、代理出産の方が確実に大きいと言えます。だから、それによって得られる代理母の収入も大きなものになるのでしょうが……。
 しかし、現在の先進国における裕福な人たちは、代理出産の依頼者側であり、一方の行為(裕福な男性が、貧困にあえぐ女性を買うような行為)を倫理的に否定し、一方の行為(裕福な人たちが、貧困にあえぐ人たちの子宮を道具として借りるような行為)を肯定してしまっています。
 この盲目的な倫理観は、代理出産のような行為が、前述のような進化論的な歴史の中で、人類が体験しなかった非常に特殊な行為だからなのでしょう。
 極端な話。仮に、こういった代理出産ビジネスが市場原理によって推し進められるなら、裕福な女性(女性だけとはかぎらないだろう)たちは、誰もが妊娠や出産という危険を冒すことなく、途上国などの金銭的に安い子宮をレンタルして子孫を残すことを選択するかもしれません。売春という行為に直面したときの倫理観に照らし合わせるならば、代理出産という行為もまた、そこに市場原理があっていいはずはないように思えます。そして、そうではなく、市場原理に突き動かされた代理出産が倫理的に正しいとするならば、売春という行為もまた、許されるものかもしれません。金銭的な困窮状態におかれた女性たちが、代理出産ほどの肉体的あるいは精神的な苦痛を感じることなく、比較的負担の軽い労働を得ることは、それこそ救済につながると思うのです。
 断っておきますが、僕は売春を正しい行為だと述べているわけではありません。ビジネス化された代理出産と売春は、同一の問題を孕んでいると、人が気付かないのは、一方の行為が進化論的な人の歴史の中であり得なかった行為だからだ、と述べているにすぎません。
 代理出産が、子供を持てない夫婦の救済であることは承知しています。代理出産が彼らを救うなら、医療行為として代理出産はひとつの治療なのでしょう。ただ、それが市場原理によって推し進められることには、疑問が残ると思います。
 
2011/10/25 修正

2011年10月19日水曜日

頭の中身について

 河野哲也著「暴走する脳科学 哲学・倫理学からの批判的検討」、読了です。
 著者は、fMRI(機能的核磁気共鳴法)やPET(陽電子放射断層撮影法)などの機器によって、脳内の活動が視覚的に研究することが可能になったことを受け、その結果の画像が、さも感情や知覚と因果関係にあるかのような解釈が与えられている昨今の脳科学を批判しています。
 茂木健一郎などの脳科学者がテレビ出演するなど、テレビ等のメディアにおいても脳科学はブームのようで、当然のように新聞の一面を割いて脳トレの特集が組まれ、書店では脳科学の視点から書かれた頭の良くなるような本が並べられています。
 そういった本にありがちなのが、特定の場所の脳機能と知覚したり記憶したりする行動を一対一に割り振ってしまうような理屈※で、僕もそういったある意味乱暴な脳機能の意味付けに懐疑的だったので、河野の主張は十分受け入れられるものでした。(※fMRI画像を提示して、どこそこの部位が活発に活動してるので、記憶能力がアップしているとかなんとかいう、アレです。w)
 ただ、ベンジャミン・リベットの自由意志の研究に関しては、少し反論があります。
 ベンジャミン・リベットの言う0.5s遅れのアウェイアネス(気づき)は、「よし、やろう!」と決意した場合の気づきのみを言っているわけではない、ということです。
 リベットの実験結果は、つねに、僕たちの意識(つまり、気づき)は、脳の準備電位の発生よりも0.5s遅れて生じ、その後、意識が0.5s遡って時間的なズレを打ち消してしまうというものでした。
 つまり、自由意志に関しては、ユルゲン・ハーバーマスの言うように、行為者の自己理解があるために、次に行なうべき自分の行動を選択できるわけです。
 ところが、その行動を選択しようするきっかけとなった何らかの物理現象──、その行動を取らせようとした最初の一押し、というのが、気づきの0.5s前に、準備電位として生じてしまっているわけです。その後、気づきとして意識の表層に現われた決断に対して、十分な良否判定をし、その行動を行なうか、行なわないか、を選択できる(つまり、ここに自由意志がある!ハーバーマスはこれを言っているのだろうと思う)わけです。
 しかし、十分な良否判定をする余裕のない場合、僕たちは、稀にとんでもない失敗をしている場合があり、後になって「どうしてあんなことをした(言った)のだろう」と後悔することもあるかと思います。僕は、そういった行動こそ、人の意識の0.5s遅れを証明しているようにも思えるのです。
 つまり、最初の一押し、行動のきっかけとなる準備電位は、自由意志と思っている気づきの0.5s前にあり、それはやはり、自由と思っていた意志が、神経細胞に操られているだけかもしれない、ということを示唆しています。

 で、一箇所、ツッコミです。
 抜粋します。

──ここから──

 移動について考えてみよう。ある生き物が移動するとき、たとえば、昆虫が暖かい場所をめがけて直進してくるように、まったく他の選択がなく行なわれる機械的な反射行動には自由はない、といえるだろう(しかし、本当は、昆虫が機械的な行動しかできないかどうかについては常識を疑ってみるべきである。ダーウィンの観察によれば、ミミズの行動も選択的である)。

──ここまで──(河野哲也著「暴走する脳科学 哲学・倫理学からの批判的検討」光文社新書一六八頁より)

 ミミズは昆虫ではありません。(^_^;)

2011年10月18日火曜日

アンドロイドは心の中の他者なのか?

 菅浩江著「プリズムの瞳」、読了です。
 意志を持たないアンドロイドに何を見るか?は、そのアンドロイドを見つめている人の心そのものです。
 アンドロイドが反乱を起こして人を殺すのではないか。
 人の知能を圧倒的に凌駕して、人はアンドロイドに使われるのではないか。
 アンドロイドが人に代わって、この地球を支配するのではないか。
 こういった疑心暗鬼は、それが人の心の映し鏡であることに気付くでしょうか?
 例えば、小説を書くアンドロイドいて、その小説がベストセラーになってしまった場合、あなたはそのアンドロイドを賞賛するでしょうか、嫉妬するでしょうか。ちなみに、あなたは売れない小説家です。
 アンドロイドには、本を書いてベストセラーにしてやろうとか、ライバルの小説家よりもおもしろい作品を書いてやろう、などの意志はなく、ただ、アルゴリズムに従って小説を書いただけなのですが、その結果に、どのような感情を抱くかは、その作品と対面したときの各個人の心のありようで変わると思うのです。
 僕はこの本を読んでいると、「アンドロイド」というガジェットを使った小説を書こうとするときの、それぞれの作家たちが持っている心も映し出しているように感じました。
 アンドロイドを殺人ロボットして描くのか、性玩具として描くのか、ただの絵描きとして描くのか?
 ハリウッド映画などの「アンドロイドといえば殺人兵器」みたいな設定は、やはり、作り手側、あるいはそういった映画を好んで観る観客の心を反映しているとしか思えないのです。
 想像上のアンドロイドという観念そのものが、人の心を反映していて、では、観念的な心の中のアンドロイドとは何なのか?と問われば、それはその人の心の中にある他者(あるいは異性)のようでもあります。他者に善意を見るのか、悪意を見るのか、それは人それぞれなのでしょう。

2011年10月17日月曜日

仏陀再誕再観!

 僕は、「すべての宗教はインチキだ」と思っています。神や悪魔、霊や魂、天国や地獄など、人の神経細胞が生み出した空想上のクリーチャー、あるいはアーティファクトです。映画「仏陀再誕」の中で、霊界の裁判官(?)が糾弾していた唯物論者ですね。(^_^;)
 さて、久しぶりにその「仏陀再誕」を観ました。
 前半から、唯物論者の金本さんが霊界で糾弾されていたり、医者である小夜子の父親が空野に説教食らっていたりと、唯物論者の僕にとっては耳の痛い映画となっております。
 この映画、操念会の会長によって、主人公小夜子の弟が現代医療では治せない病にかかり、それをTSIの空野が霊能力で治療する場面があります。この、不治の病がTSIの力によって治ってしまう、というような描写は、裏を返せば、TSIの力がなければ治せない病気があり、仮にそういった力を信じないのであれば、死んでも仕方ない、といっているようでもあります。
 この、遠回しな脅迫は、敵方の操念会会長が唱えている論と同じ手法であることに気付きます、よね?それは、恐怖による支配です。
 操念会の会長の論を、自らにとって都合のいいような主張であるとして否定する空野の主張もまた、自分にとって都合のいいような論をお仕着せようとしています。
 空野さん、「人間の本質は心にある!」と叫ばれているようですが、その根拠は?
 「真理は!」とか「本質は!」などと叫ぶ人間の主張をよく聞くと、それはたんに「俺の言いたいことは!」と叫んでいるに過ぎない場合が多いのですよ。
 政治の世界で繰り広げられる討論のカリカチュアのようなふたりのかけひきです。俺の言うことが正しい!いや、俺の言うことが正しい!みたいな。
 宗教的な主張がいかに多くの人に受け入れられるのかは、とても政治的なかけひきであり、それが正しいかどうかは関係なく、多く人心を掌握した宗教が将来生き残っていくのでしょう。
 この映画では、TSI側が勝利したので、空野に「俺が正しい!」と主張する権利が生じたわけです。そして、勝った空野の方が、「俺がブッダの生まれ変わりだ!」と叫ぶことができるわけです。操念会会長が言うとおり、まさに、この世は弱肉強食ですね。

 ちなみに、巷では、登場人物の空野は大川隆法だとか、荒井は池田大作だなどの憶測が飛び交っているようですが、この映画では一切そのように述べられてはいないので、今回は、そういった憶測なしに書いてみました。
 仮に、現実世界にTSIなる宗教団体があり、その宗教団体がプロパガンダとしてこの映画を作ったのであれば、小夜子が、操念会の集会に参加し、感化されそうになった場面で、ぜひ、現実世界でこの映画を観ることによって感化されそうになる危うさにも、この映画を観た人たち全員に気付いて欲しいと思うのです。
 映画の中で操念会の会長がやっていたことと、そっくり同じことを、空野さんは映画館に来た人たちにしているのですよ。
 恐いのは、この映画の対象としている人たちが、リテラシー能力の低い比較的若い年齢であることです。そのために声優陣を豪華キャストにし、主人公を小夜子のような女子高生に設定したのでしょう。弱者を狙う、非常に狡猾で卑劣な手段ですね。
 現実世界で、宗教団体がこういったTSIのような卑劣なプロパガンダを行なうことのないよう祈ります。
 大丈夫ですよね?「TSI」は、「幸福の科学」ではないですよね?

2011/10/19 修正

2011年10月12日水曜日

アンドロイドは人を映す鏡

 菅浩江著「そばかすのフィギュア」、読了です。
 たまたま取り寄せたSFマガジン2008年4月号に掲載されていた「流浪の民」を読んだのがきっかけで、この菅の初期作品集を手にとってみることにしました。
 人のような感情を持たないアンドロイドに、人が感じるさまざまな感情を映している──、これは、山本弘の「アイの物語」などでもみかけた現象なのですが、菅の場合、それを意識的に行なっているようで、人為らざるものや、自分の合わせ鏡のような対象に、自分自身の感情を映し出し、浮き彫りにしています。
 ファンタジーめいた作品でありながら、そこに何かが潜んでいるかのような奥深さがあり、楽しめました。なかなかの良作揃いです。

 この後は、同じく菅浩江の「プリズムの瞳」を読みます。
 その後は、読みかけの河野哲也著「暴走する脳科学 哲学・倫理学からの批判的検討」、そして、大野和基著「代理出産 生殖ビジネスと命の尊厳」を読みます。その後は未定となっています。
 しかし、Amazonのカートにはすでに何冊か……。(^_^;)

2011年10月4日火曜日

ヴィクトリア朝の人たちとガンダム世代

 コニー・ウィルス著「犬は勘定に入れません あるいはヴィクトリア朝花瓶の謎」、読了です。
 たしか、発刊された翌年くらいに購入した本です。何かの続編ということで、積ん読のまま放置していました。それが、最近、山本弘の本などで紹介されていましたので、書棚の奥から引っぱり出して読んでみることになりました。
 本編はラブコメタイムトラベルSFであり、とても楽しい作品でした。「ドゥームディー・ブック」の姉妹編にあたるらしいのですが、直接の続編ではないので、この作品単体でも十分楽しめます。
 で、今回は、例によって本編とはまったく関係ない話を。(^_^;)
 ヴィクトリア朝の人たちというのは、現実にはどうだったのか知りませんが、本の中で話言葉にやたらと詩や小説を引用します。
 「犬は勘定に入れません」では、テレンスが、テニスンの詩やルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」、シェークスピアなどをやたらと引用しまくります。遠く離れたカナダでも、「赤毛のアン」のアン・シャーリーは、テニスンやシェークスピアを引用し、果ては、テニスンの詩を真似て、自分でボートに横たわったまま川を下り、あやうくおぼれかけてしまいます。
 この、話の合間にやたらと何かを引用したがる人たちというのは、僕の周囲にもじつはたくさんいて、それがどういう人たちなのかというと、みんな「エヴァンゲリオン」や「ガンダム」で育った世代の人たちなのですよね。
 職場の設備(3号機)が調子悪くなると、「エヴァ三号機、現時刻をもって破棄!」と叫んだり、新しい器具が導入されると、「見せてもらおうか。連邦のなんちゃらの性能とやらを」とつぶやいたり。
 ガンダム世代(エヴァ世代)には、ガンダム世代共通のコンテクストが存在していて、それが強烈に作用するので、例えば、古い機器を勧めるようなヤツには、「お父さん、酸素欠乏症で頭が……」と指摘して、その台詞のコンテクストを通じて背景にある共通した意味性を感じることができます。
 この、ガンダム世代共通のコンテクストと、ヴィクトリア朝の英国人がシェクスピアやテニスンから得ていたコンテクストは、同じ種類のモノであり、アン・シャーリーがランスロットの声によって悲劇の姫となったシャーロットを真似たように、僕たちもまた、シャア・アズナブルを演じ、「認めたくないものだな。若さ故のなんちゃらかんちゃら」と言い、「坊やだからさ」とツッコミます。
 こうやって考えると、あの、気持ちの悪いヴィクトリア朝時代の会話にも、少しは共感できるのではないでしょうか?(^_^;)