大野和基著「代理出産 生殖ビジネスと命の尊厳」、読了です。
代理出産、とくに、夫婦のうち、夫だけの精子を使い、代理母の卵子と人工授精させるような代理出産の場合、それが浮気の結果できた子供を引き取るようなものだ──、といったようなことを、代理出産を依頼した側の夫が感じているというのが、なかなか興味深い話でした。
たしかに、この代理出産による遺伝子の受け渡しの構造のみを見れば、そうなのかもしれません。
妊娠は、元来、性行為によって男性が女性のヴァギナにペニスを挿入する、という手段を踏まなければ不可能でした。それが科学技術の進歩で、それ以外の方法でも可能になったわけです。僕には、この性行為を伴わない妊娠こそ、人の盲目的な倫理観に繋がっているように思えています。
妻は、夫が浮気をすることは許せなくても、精子を提供して、他の女性を妊娠させてしまうことは許せてしまう。これは、進化の道のりの中で得た、人の「裏切り者を見つける能力」の限界を超えているからであろうと想像できます。
精子だけを他の女性の体内に注入する男性など、これまでのホモ・サピエンスの歴史の中ではあり得ませんでした。そこに性行為や快楽といった、遺伝子の交叉にかならずつきまとっていた行為や感情はなく、機械的に遺伝子の受け渡しがおこなわれるだけです。そういった行為を、背信行為と認識するだけの能力が、僕たちの心には備わっていないのでしょう。
しかし、遺伝子の受け渡しの構造だけを見れば、それはあきらかに妻以外の女性を配偶者として選んだということであり、浮気と同じ構造をしています。しかし、実際、そういったやりとりがおこなわれたとしても、僕たちは、その事実について盲目的な倫理観しか持ち得ません。
これは、体外受精による受精卵を使った代理出産にも、同じようなことが言えるのではないでしょうか?
妻以外の女性の体内に、夫と妻の受精卵を植え付けるような行為は、人類の長い歴史の中でも無かったことです。そういった行為に、なんらかの感情を抱けるような心の構造を、僕たちは持ち得ていないのでしょう。それが生命工学に対して、僕たちの倫理観を盲目にしている一番の理由のような気がします。
他の女性の体内に受精卵を植え付けるような行為には、なにも感じないが、直接、夫が他の女性のヴァギナにペニスを挿入することには直感的に激しい怒りを感じる──。その理由は、進化的な道のりの中で、人がどのような行為を背信行為として認識していたのかによるのでしょう。この、人がどう認識していいのかわからないような行為が、代理出産であり、人工授精や体外受精といった生命工学です。
僕はこの本で、代理出産ビジネスというものが、すでに世界規模でスタンダードなものになりつつあるという事実を初めて知りました。
先進諸国の比較的裕福な人たちが、インドなどで比較的安く代理出産を依頼するという、代理出産のアウトソーシング化にまで発展しているという事実に、少なからず衝撃を受けました。
妊娠して出産するという行為が、労働であり、その労働市場が市場原理に動かされているのであれば、男性が女性との性行為を望み、女性側も利益を得ようとする売春行為もまた、立派な労働であるように思われます。
このビジネス化された代理出産と売春との違いは、性行為や男性の快楽を伴っているかどうかの違いであり、女性の肉体的な負担(そして精神的な負担も!)は、代理出産の方が確実に大きいと言えます。だから、それによって得られる代理母の収入も大きなものになるのでしょうが……。
しかし、現在の先進国における裕福な人たちは、代理出産の依頼者側であり、一方の行為(裕福な男性が、貧困にあえぐ女性を買うような行為)を倫理的に否定し、一方の行為(裕福な人たちが、貧困にあえぐ人たちの子宮を道具として借りるような行為)を肯定してしまっています。
この盲目的な倫理観は、代理出産のような行為が、前述のような進化論的な歴史の中で、人類が体験しなかった非常に特殊な行為だからなのでしょう。
極端な話。仮に、こういった代理出産ビジネスが市場原理によって推し進められるなら、裕福な女性(女性だけとはかぎらないだろう)たちは、誰もが妊娠や出産という危険を冒すことなく、途上国などの金銭的に安い子宮をレンタルして子孫を残すことを選択するかもしれません。売春という行為に直面したときの倫理観に照らし合わせるならば、代理出産という行為もまた、そこに市場原理があっていいはずはないように思えます。そして、そうではなく、市場原理に突き動かされた代理出産が倫理的に正しいとするならば、売春という行為もまた、許されるものかもしれません。金銭的な困窮状態におかれた女性たちが、代理出産ほどの肉体的あるいは精神的な苦痛を感じることなく、比較的負担の軽い労働を得ることは、それこそ救済につながると思うのです。
断っておきますが、僕は売春を正しい行為だと述べているわけではありません。ビジネス化された代理出産と売春は、同一の問題を孕んでいると、人が気付かないのは、一方の行為が進化論的な人の歴史の中であり得なかった行為だからだ、と述べているにすぎません。
代理出産が、子供を持てない夫婦の救済であることは承知しています。代理出産が彼らを救うなら、医療行為として代理出産はひとつの治療なのでしょう。ただ、それが市場原理によって推し進められることには、疑問が残ると思います。
代理出産、とくに、夫婦のうち、夫だけの精子を使い、代理母の卵子と人工授精させるような代理出産の場合、それが浮気の結果できた子供を引き取るようなものだ──、といったようなことを、代理出産を依頼した側の夫が感じているというのが、なかなか興味深い話でした。
たしかに、この代理出産による遺伝子の受け渡しの構造のみを見れば、そうなのかもしれません。
妊娠は、元来、性行為によって男性が女性のヴァギナにペニスを挿入する、という手段を踏まなければ不可能でした。それが科学技術の進歩で、それ以外の方法でも可能になったわけです。僕には、この性行為を伴わない妊娠こそ、人の盲目的な倫理観に繋がっているように思えています。
妻は、夫が浮気をすることは許せなくても、精子を提供して、他の女性を妊娠させてしまうことは許せてしまう。これは、進化の道のりの中で得た、人の「裏切り者を見つける能力」の限界を超えているからであろうと想像できます。
精子だけを他の女性の体内に注入する男性など、これまでのホモ・サピエンスの歴史の中ではあり得ませんでした。そこに性行為や快楽といった、遺伝子の交叉にかならずつきまとっていた行為や感情はなく、機械的に遺伝子の受け渡しがおこなわれるだけです。そういった行為を、背信行為と認識するだけの能力が、僕たちの心には備わっていないのでしょう。
しかし、遺伝子の受け渡しの構造だけを見れば、それはあきらかに妻以外の女性を配偶者として選んだということであり、浮気と同じ構造をしています。しかし、実際、そういったやりとりがおこなわれたとしても、僕たちは、その事実について盲目的な倫理観しか持ち得ません。
これは、体外受精による受精卵を使った代理出産にも、同じようなことが言えるのではないでしょうか?
妻以外の女性の体内に、夫と妻の受精卵を植え付けるような行為は、人類の長い歴史の中でも無かったことです。そういった行為に、なんらかの感情を抱けるような心の構造を、僕たちは持ち得ていないのでしょう。それが生命工学に対して、僕たちの倫理観を盲目にしている一番の理由のような気がします。
他の女性の体内に受精卵を植え付けるような行為には、なにも感じないが、直接、夫が他の女性のヴァギナにペニスを挿入することには直感的に激しい怒りを感じる──。その理由は、進化的な道のりの中で、人がどのような行為を背信行為として認識していたのかによるのでしょう。この、人がどう認識していいのかわからないような行為が、代理出産であり、人工授精や体外受精といった生命工学です。
僕はこの本で、代理出産ビジネスというものが、すでに世界規模でスタンダードなものになりつつあるという事実を初めて知りました。
先進諸国の比較的裕福な人たちが、インドなどで比較的安く代理出産を依頼するという、代理出産のアウトソーシング化にまで発展しているという事実に、少なからず衝撃を受けました。
妊娠して出産するという行為が、労働であり、その労働市場が市場原理に動かされているのであれば、男性が女性との性行為を望み、女性側も利益を得ようとする売春行為もまた、立派な労働であるように思われます。
このビジネス化された代理出産と売春との違いは、性行為や男性の快楽を伴っているかどうかの違いであり、女性の肉体的な負担(そして精神的な負担も!)は、代理出産の方が確実に大きいと言えます。だから、それによって得られる代理母の収入も大きなものになるのでしょうが……。
しかし、現在の先進国における裕福な人たちは、代理出産の依頼者側であり、一方の行為(裕福な男性が、貧困にあえぐ女性を買うような行為)を倫理的に否定し、一方の行為(裕福な人たちが、貧困にあえぐ人たちの子宮を道具として借りるような行為)を肯定してしまっています。
この盲目的な倫理観は、代理出産のような行為が、前述のような進化論的な歴史の中で、人類が体験しなかった非常に特殊な行為だからなのでしょう。
極端な話。仮に、こういった代理出産ビジネスが市場原理によって推し進められるなら、裕福な女性(女性だけとはかぎらないだろう)たちは、誰もが妊娠や出産という危険を冒すことなく、途上国などの金銭的に安い子宮をレンタルして子孫を残すことを選択するかもしれません。売春という行為に直面したときの倫理観に照らし合わせるならば、代理出産という行為もまた、そこに市場原理があっていいはずはないように思えます。そして、そうではなく、市場原理に突き動かされた代理出産が倫理的に正しいとするならば、売春という行為もまた、許されるものかもしれません。金銭的な困窮状態におかれた女性たちが、代理出産ほどの肉体的あるいは精神的な苦痛を感じることなく、比較的負担の軽い労働を得ることは、それこそ救済につながると思うのです。
断っておきますが、僕は売春を正しい行為だと述べているわけではありません。ビジネス化された代理出産と売春は、同一の問題を孕んでいると、人が気付かないのは、一方の行為が進化論的な人の歴史の中であり得なかった行為だからだ、と述べているにすぎません。
代理出産が、子供を持てない夫婦の救済であることは承知しています。代理出産が彼らを救うなら、医療行為として代理出産はひとつの治療なのでしょう。ただ、それが市場原理によって推し進められることには、疑問が残ると思います。
2011/10/25 修正
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