菅浩江著「プリズムの瞳」、読了です。
意志を持たないアンドロイドに何を見るか?は、そのアンドロイドを見つめている人の心そのものです。
アンドロイドが反乱を起こして人を殺すのではないか。
人の知能を圧倒的に凌駕して、人はアンドロイドに使われるのではないか。
アンドロイドが人に代わって、この地球を支配するのではないか。
こういった疑心暗鬼は、それが人の心の映し鏡であることに気付くでしょうか?
例えば、小説を書くアンドロイドいて、その小説がベストセラーになってしまった場合、あなたはそのアンドロイドを賞賛するでしょうか、嫉妬するでしょうか。ちなみに、あなたは売れない小説家です。
アンドロイドには、本を書いてベストセラーにしてやろうとか、ライバルの小説家よりもおもしろい作品を書いてやろう、などの意志はなく、ただ、アルゴリズムに従って小説を書いただけなのですが、その結果に、どのような感情を抱くかは、その作品と対面したときの各個人の心のありようで変わると思うのです。
僕はこの本を読んでいると、「アンドロイド」というガジェットを使った小説を書こうとするときの、それぞれの作家たちが持っている心も映し出しているように感じました。
アンドロイドを殺人ロボットして描くのか、性玩具として描くのか、ただの絵描きとして描くのか?
ハリウッド映画などの「アンドロイドといえば殺人兵器」みたいな設定は、やはり、作り手側、あるいはそういった映画を好んで観る観客の心を反映しているとしか思えないのです。
想像上のアンドロイドという観念そのものが、人の心を反映していて、では、観念的な心の中のアンドロイドとは何なのか?と問われば、それはその人の心の中にある他者(あるいは異性)のようでもあります。他者に善意を見るのか、悪意を見るのか、それは人それぞれなのでしょう。
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