2011年5月18日水曜日

ヒトとは思えない登場人物たち

 上田早夕里への反論、その第2回目です。
 短編「魚舟・獣舟」の中で、上田は、線虫とヒトの遺伝子数を比較し、線虫が二万、ヒトが二万三千であることから、生物の複雑な差異は遺伝子の数に依存しないことを述べています。つまり、生物の表現型は、遺伝子をどうやって・何回・どんな組み合わせで使いまわすかで決まり、それを応用することで、魚舟のような表現型を持ったヒトも生み出すことができる──、と説明しています。
 つまり、この行は、僕の2011512日木曜日のブログ「華竜の宮」で述べたことが、少し誤りであることを明らかにしました。上田は、この短編において、魚舟の科学的な背景を述べていたのです。
 しかし、それでも僕はこの説明に納得するわけにはいきません。
 ヒトの遺伝子の使用回数や組み合わせを変え、誘導の連鎖反応をものの見事に書き換えて、ヒトの遺伝子で線虫が生み出せるのなら、その線虫もヒトであることになります。(両生類のような生物に変わることができるのならば、線虫にだって!w)
 では、逆の場合はどうでしょう。ヒトよりも遺伝子数が多い植物やミジンコなどの生物の遺伝子を利用し、ヒトもできるのではないでしょうか?何か悪夢のようですが、これが可能であれば、ヒトの遺伝子を改変する必要などなく、ミジンコや植物(これも死滅してしまうのならば、地熱を利用するような微生物など)が生き残ってくれれば、それでいいような気もします。(^_^;)
 そして、ヒトにとって都合の良い世界がやがて訪れたとき、ヒトに変わるためのスイッチが入って、ミジンコがヒトになる──。こっちの方が、SF的にも面白いのではないかと思うのですが、どうでしょう?
 次に、もし、魚舟にならなければ、ヒトが地球環境に適応できないような場合、果たしてそれをヒトが受け入れられるかどうか、です。
 僕は、受け入れられないのではないか?と思うのです。
 ヒトが、好ましいと思うか好ましくないと思うのか、それには傾向のようなものがあって、自分のふたごが魚舟のような容姿を持って生まれてくることに、少なからず嫌悪感を抱くだろうと予想できます。(あるいは、魚舟の容姿をまとって生まれてくるのは、自分自身かもしれません)ヒトが、好ましく思う容姿は、やはり自分に似た姿であり、いかに海上生活に適応しようとも、両生類のような容姿ではないと思うのです。性淘汰のような場合、そこには雄や雌の選好性が大きく関わってきます。わずかな両目の距離の違い鼻の横幅の差異であっても、それを好ましく感じたり好ましくないと感じたりする生き物が、果たして両生類のような外観を受け入れることができるのでしょうか。
 僕は上田の作品に感動も何も感じないと述べました。それは、上記のような理由によります。「魚舟・獣舟」でのヒトが、どう考えても、僕の知っているヒトとは違った思考を持っているとしか思えず、彼らを僕とは同じヒトとは到底思えないからです。よって、「魚舟・獣舟」で活躍している登場人物たちは、ヒトに似た別の生き物であり、そこから「ヒトとは何か?」といったような議論は導かれません。

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