中村融編「時の娘」を読んでいます。様々な作家のロマンチックな時間SFを集めたアンソロジーです。
ウィリアム・M・リー著「チャリティのことづて」と、デーモン・ナイト著「むかしをいまに」を読了です。
「チャリティのことづて」は、西暦1700年と1965年に暮らす男女が知り合って恋に落ちるというお話しです。それぞれ、肉体的には触れ合えませんが、会話や料理の味、匂いなどは共有できたようです。1700年に暮らすチャリティは、1965年に暮らすピーターから聞いた、あるいは一緒に体験したことを、1700年に暮らす友人に打ち明けたところ、魔女の疑いをかけられてしまいます。
そこで、ピーターは、チャリティを救うために、街の歴史を調べ、チャリティを裁く予定の治安判事ジョーナス・ハッカーがじつは殺人犯であったことを突きとめます。
チャリティは裁判で、殺人を千里眼の能力で見たと匂わし、死体が埋めてある場所は地下室であり、証拠の品もそのすぐそばに埋めてあると証言します。
これ、じつは治安判事ジョーナス・ハッカーの家の地下室なのですが、自分が犯人であることを明かされることを恐れたハッカーは、チャリティを無罪放免します。
で、めでたし、めでたし──、なのですが、僕は心配です。
ハッカーがこの後死体を焼却処分し、その他の証拠隠滅を図れば、1965年においてピーターが、ハッカーが殺人犯であることを知る術がなくなってしまいます。すると、哀れ、チャリティは魔女の汚名を着せられたまま絞首刑か火あぶりに……。
ここでも、見事にパラドックスが成立していますね。
デーモン・ナイト著「むかしをいまに」は、時間が逆行していく世界のお話しです。死んだ瞬間が、生まれた瞬間であり、ひげそりを当てることでひげが生え剃り、友人とテーブルに座ってビールを吐き出しながら会話をします。ビデオテープを逆回ししているように物語は進んでいき(?)、やがて主人公は子供時代まで成長(?)して、そしてようやく自分の母親に出会います。
せつないような、それでいてどこかユーモラスで、でも時間というものについて、少し考えさせられるようなお話しです。「失った過去」などといった時間の感覚は、それを主観的に捉えている人間が勝手に生み出したもので、この世界がたまたまそういう分子や原子の状態であっただけであり、僕達がそれを「時間の経過」と感じるのは、その分子や原子が同じ状態に戻れる確率がほぼゼロに近いからなのだろうか、などと想像してみました。熱力学的平衡に達した系では、時間の経過という概念がなくなってしまうように、僕達の暮らしている世界は、局所的に熱力学的落差が生じていて、たまたま、その落差が作り出した流動の中に、僕達は時間を感じているのではないかと……。
そう考えれば、時間の進行も逆行も、そう意味のあることではなく、自分の子供時代も現在も、同じ時間の中の、違った分子や原子の状態であり、失った過去などいうものは、もしかしたら、僕のすぐ隣にある原子が演出していた状態なのかもしれないなぁ、と。
いや、ガラにもなく、そんなことを考えてしまいました。
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