川原由美子原作「観用少女 プランツ・ドール 完全版 全三巻」、読了です。
一方的に客から選ばれるのではなく、観用少女側から持ち主を選択できるという設定が面白いですね。選択の主導権は、あくまで少女側にあり、こちら(客)にはありません。観用少女には選り好みがあり、客が男性であろうと女性であろうと、一方的に観用少女を選択することはできません。
この観用少女の選好性は、あたかも現実の少女たちの選好性のようであり、愛玩したい対象としての少女であるにも関わらず、その愛情を受け入れてくれない、主体性を持った人間の少女のようです。男性にとっても女性にとってもそれは同じで、だから、観用少女は、同性である女性ですら、気に入らなければ目を覚ましません。女性にとっても、未成熟で可愛い少女は、愛玩したい対象であるようで、その気持ちを男性以上にストレートに表現できる彼女たちの間に、人形遊びという文化は広がっていったのでしょう。しかし、一方的に選択し愛でていた対象から、逆に拒絶されることもあるというのは、女性にとっても辛いことのようです。
その観用少女も、快楽に溺れたり悲しみを経験したりすることによって大人になり、人間の男性と結ばれます。しかしそれは、逆に言えば成熟する以前の少女は、ほぼ人形(観用少女)に等しい存在であるかのようです。好奇の視線に晒され、暴力的な妄想の矢面に立たされ、愛玩動物のように愛でられる客体としての少女が観用少女であり、大人から見た客体としての少女とは、男性にとっても女性にとっても人形のようなものなのかもしれません。その客体と、客体自体が持つ主観のせめぎ合いが、現実の世界では繰り広げられていて、観用少女が選好性を持っていることは、そのせめぎ合いの暗喩のような気がしました。
面白かったですね。
2011年7月31日日曜日
2011年7月30日土曜日
生存、戦略ぅぅぅぅっ!
「異国迷路のクロワーゼ」と「輪るピングドラム」を観ています。
今期は、他に「神様ドォルズ」や「神様のメモ帳」、「猫神やおよろず」(なぜか神様がタイトルに付く作品ばかり)などを観ていますが、特に、前述した二作品は注目しています。
「異国迷路のクロワーゼ」は、日本人女性である湯音がフランスの看板屋さんに奉公に出る話。そして、「輪るピングドラム」は、不治の病に冒された妹が一度死に、謎の宇宙人(?)の力を借りて蘇り、妹を溺愛する兄弟が、宇宙人の命じるままにピングドラムを探し回る、というお話しです。
こうやって書いただけでも、「異国迷路」の方はわかりやすい話なのに対して、「輪るピングドラム」の方はどんな話なのか想像がつきにくいのではないかと思います。そして、この二作品、じつは「美少女戦士セーラームーン」を手がけたふたりが、それぞれ監督をしています。今から思えば、こんなに個性の違うふたりが、よく同じ作品を監督できたと思います。
「異国迷路のクロワーゼ」が、「おジャ魔女どれみ」、「ふしぎ星の☆ふたご姫」の佐藤順一。「輪るピングドラム」が、あの伝説のアニメ「少女革命ウテナ」を手がけた幾原邦彦です。
佐藤順一作品の傾向として、登場人物が基本的に「よい子」である、といった特徴があると思います。そのため、女児向けの作品を手がけると非常に巧く、大人向けの作品を手がけると「癒される」作品を生みます。
一方、幾原邦彦は、女の子の可愛い部分だけではなく、心の底にある欲望や憎悪、嫉妬や妬みといったどす黒い感情まで描いてしまいます。ちなみに「輪るピングドラム」の二話では、荻野目苹果は、多蕗桂樹の家の床下にまで侵入してストーカーしていました。w
い、いや、そんな女いねぇだろ……。 (^_^;)
この突拍子もない展開、わけわからん演出(失礼w)、まさにこれぞ幾原作品といったアニメです。「輪るピングドラム」は……。
湯音の健気さ、そして彼女を取り巻くパリの人々の、心の温かさをたぶん描くであろう「異国迷路のクロワーゼ」も楽しみですが、久しぶりの幾原邦彦監督作品にも注目です。「少女革命ウテナ」以上に突っ走って欲しいものです。
今期は、他に「神様ドォルズ」や「神様のメモ帳」、「猫神やおよろず」(なぜか神様がタイトルに付く作品ばかり)などを観ていますが、特に、前述した二作品は注目しています。
「異国迷路のクロワーゼ」は、日本人女性である湯音がフランスの看板屋さんに奉公に出る話。そして、「輪るピングドラム」は、不治の病に冒された妹が一度死に、謎の宇宙人(?)の力を借りて蘇り、妹を溺愛する兄弟が、宇宙人の命じるままにピングドラムを探し回る、というお話しです。
こうやって書いただけでも、「異国迷路」の方はわかりやすい話なのに対して、「輪るピングドラム」の方はどんな話なのか想像がつきにくいのではないかと思います。そして、この二作品、じつは「美少女戦士セーラームーン」を手がけたふたりが、それぞれ監督をしています。今から思えば、こんなに個性の違うふたりが、よく同じ作品を監督できたと思います。
「異国迷路のクロワーゼ」が、「おジャ魔女どれみ」、「ふしぎ星の☆ふたご姫」の佐藤順一。「輪るピングドラム」が、あの伝説のアニメ「少女革命ウテナ」を手がけた幾原邦彦です。
佐藤順一作品の傾向として、登場人物が基本的に「よい子」である、といった特徴があると思います。そのため、女児向けの作品を手がけると非常に巧く、大人向けの作品を手がけると「癒される」作品を生みます。
一方、幾原邦彦は、女の子の可愛い部分だけではなく、心の底にある欲望や憎悪、嫉妬や妬みといったどす黒い感情まで描いてしまいます。ちなみに「輪るピングドラム」の二話では、荻野目苹果は、多蕗桂樹の家の床下にまで侵入してストーカーしていました。w
い、いや、そんな女いねぇだろ……。 (^_^;)
この突拍子もない展開、わけわからん演出(失礼w)、まさにこれぞ幾原作品といったアニメです。「輪るピングドラム」は……。
湯音の健気さ、そして彼女を取り巻くパリの人々の、心の温かさをたぶん描くであろう「異国迷路のクロワーゼ」も楽しみですが、久しぶりの幾原邦彦監督作品にも注目です。「少女革命ウテナ」以上に突っ走って欲しいものです。
2011年7月26日火曜日
久々のコミック、テーマは「人形愛」
川原由美子原作「観用少女」と、鬼頭莫宏原作「ヴァンデミエールの翼」を平行して読んでいます。
この二作品、テーマは人形愛です。
小川一水の「天冥の標」に登場する<恋人たち(ラバーズ)、そしてパオロ・バチガルピ著の「ねじまき少女」に登場したエミコ、山本弘の「アイの物語」に登場した詩音やアイビス。彼女たちは人から愛され、ときには性愛の対象ともなります。近頃読んだSFに多く登場したこれらの人形に対して、人が抱いてしまう愛情や劣情を、もう少し自分なりに掘り下げてみたくなりました。
この二冊は、下記URLの「ロリータ治療塔」で紹介されていたコミックであり、その内容が、ロリコンというよりは人形愛のようにも思えたので、読んでみることになりました。
ロリータ治療塔
http://www006.upp.so-net.ne.jp/handa-m/index.htm
「観用少女」本作は、美しい姿をした少女人形に心を奪われる人たちを描いています。若い男も中年の親父も、働く女性も幼い少女も、この人の形をした生き人形を愛してしまいます。
上記URLページにも、掲示板には女性が参加し、自ら少女愛という性的な嗜好をカミングアウトしています。ロリコンというか、少女の形をした一見ヒトのように見える物体は、男女問わず、心惹かれる存在であるようです。
では、なぜそうなのか?
中世のヨーロッパ。女性は一二、三歳で結婚し、一六歳ともなれば早くも寡婦であったという事実は、権力ある結婚可能な大半の男が幼い女性を好んでいたということです。また、上記URLでも、ロリータの定義を「9歳から14歳まで。個人差はあるものの、上限 はどんなに譲っても15歳まででしょう。」としています。また、日本人男性の性的嗜好は、「美しい」よりも「可愛い」が選好性の上位にあるようです。そこには、「幼い」という意味合いも含まれます。例え、成熟した女性であっても、男性はその女性の中に「可愛い」や「幼い」を見いだそうとします。
そして、僕にとっては永遠の謎である「女性の中の少女観」のようなものに触れられる「観用少女」は、とても興味深い作品です。
ただ、少しツッコミも──。
観用少女と呼ばれる生き人形は、気に入ったお客が来ると目覚めます。そして、目覚めれば、何らかのメンテナンスなしには、別のお客に懐かない、という設定になっているようです。観用少女を売っているお店の店主が、そう言っています。
ところが、観用少女は何度かこの設定を無視してしまっています。もしかして、観用少女のお店の店主は、観用少女に気に入られた客に確実に売るために、ウソを言っているのでしょうか? (^_^;)
一度目覚めた観用少女は、他のお客様には懐かない──、それ、本当なのですか?
この二作品、テーマは人形愛です。
小川一水の「天冥の標」に登場する<恋人たち(ラバーズ)、そしてパオロ・バチガルピ著の「ねじまき少女」に登場したエミコ、山本弘の「アイの物語」に登場した詩音やアイビス。彼女たちは人から愛され、ときには性愛の対象ともなります。近頃読んだSFに多く登場したこれらの人形に対して、人が抱いてしまう愛情や劣情を、もう少し自分なりに掘り下げてみたくなりました。
この二冊は、下記URLの「ロリータ治療塔」で紹介されていたコミックであり、その内容が、ロリコンというよりは人形愛のようにも思えたので、読んでみることになりました。
ロリータ治療塔
http://www006.upp.so-net.ne.jp/handa-m/index.htm
「観用少女」本作は、美しい姿をした少女人形に心を奪われる人たちを描いています。若い男も中年の親父も、働く女性も幼い少女も、この人の形をした生き人形を愛してしまいます。
上記URLページにも、掲示板には女性が参加し、自ら少女愛という性的な嗜好をカミングアウトしています。ロリコンというか、少女の形をした一見ヒトのように見える物体は、男女問わず、心惹かれる存在であるようです。
では、なぜそうなのか?
中世のヨーロッパ。女性は一二、三歳で結婚し、一六歳ともなれば早くも寡婦であったという事実は、権力ある結婚可能な大半の男が幼い女性を好んでいたということです。また、上記URLでも、ロリータの定義を「9歳から14歳まで。個人差はあるものの、上限 はどんなに譲っても15歳まででしょう。」としています。また、日本人男性の性的嗜好は、「美しい」よりも「可愛い」が選好性の上位にあるようです。そこには、「幼い」という意味合いも含まれます。例え、成熟した女性であっても、男性はその女性の中に「可愛い」や「幼い」を見いだそうとします。
そして、僕にとっては永遠の謎である「女性の中の少女観」のようなものに触れられる「観用少女」は、とても興味深い作品です。
ただ、少しツッコミも──。
観用少女と呼ばれる生き人形は、気に入ったお客が来ると目覚めます。そして、目覚めれば、何らかのメンテナンスなしには、別のお客に懐かない、という設定になっているようです。観用少女を売っているお店の店主が、そう言っています。
ところが、観用少女は何度かこの設定を無視してしまっています。もしかして、観用少女のお店の店主は、観用少女に気に入られた客に確実に売るために、ウソを言っているのでしょうか? (^_^;)
一度目覚めた観用少女は、他のお客様には懐かない──、それ、本当なのですか?
2011年7月18日月曜日
アンドロイドは夢をみるのか?
山本弘著「アイの物語」、読了です。
物語とは?という問いかけが、そのまま「ヒトとは何か?」という問いかけに置き換えられています。アンドロイドに物語を語らせながら、山本は物語の中で物語論を展開し、それはじつはヒトについての話であるという結末にたどり着きます。そして物語全体が終わりを告げたときに、ヒトとは何か、その回答の一つが示されます。とても面白い体験でした。
アンドロイドという「他者」に対して、ヒトが投影する意識は、その投影するヒト自身の意識が映った鏡のようものです。他者の中に善意を見いだすか悪意を見いだすかは、アンドロイドに投影するヒトの意識次第なのかもしれません。
「となりのアンドロイド」で黒崎政夫が述べたように、アンドロイドが自発的な意志を持つようになることは、非常に難しいだろうと思います。しかし、僕は不可能だとは思っていません。そうやって、いつしか自発的な意志を持ったアンドロイドが生まれるならば、ヒトとアンドロイドとの境界は、もしかすると山本弘が述べるように、「夢をみること」なのかもしれません。ただ……。自発的な意志を持ったアンドロイドが「夢をみない」というのは違和感があります。何らかの自発的な希望や願望がなければ、自発的であるはずはないと思われますので。すると、アンドロイドも夢をみる(ああ、なんかディックの小説のタイトルみたいだ!)わけで、ますますヒトとの境界はあやふやになっていきそうです。これを突き詰めていけば、アンドロイドが限りなくヒトに近づき、もはやヒトと区別がつかず、ヒトがそのような他者に向かって自発的な意志を感じるのであれば、そのような他者は、完全な「ヒト」なのではないか?という気もしてくるのです。結局、ヒトは同種のホモ・サピエンスの中にだけに、ヒトと同じような自発的な意志と心を感じています。ヒトの自発的な行動と、犬の自発的な行動が違えば、そこには理解を隔てる壁が築かれるように。
ブログなどにある山本弘の言動はあまり好きではないのですが、この作品は好感が持てました。「ヒトは全て認知症である」はよかったですね。たしかに、アンドロイドからみればそうかもしれません。できれば、社会全体が、あるいは全てのヒトが、この物語のように善良で合理的であればいいのですが。
少し不満があるとすれば、少子化の説明が不十分だったこと。なぜヒトが少子化してしまうのかを、もう少し掘り下げて欲しかったですね。しかも、社会学的ではなく、生物学的な理由を模索して欲しかったと思います。
物語とは?という問いかけが、そのまま「ヒトとは何か?」という問いかけに置き換えられています。アンドロイドに物語を語らせながら、山本は物語の中で物語論を展開し、それはじつはヒトについての話であるという結末にたどり着きます。そして物語全体が終わりを告げたときに、ヒトとは何か、その回答の一つが示されます。とても面白い体験でした。
アンドロイドという「他者」に対して、ヒトが投影する意識は、その投影するヒト自身の意識が映った鏡のようものです。他者の中に善意を見いだすか悪意を見いだすかは、アンドロイドに投影するヒトの意識次第なのかもしれません。
「となりのアンドロイド」で黒崎政夫が述べたように、アンドロイドが自発的な意志を持つようになることは、非常に難しいだろうと思います。しかし、僕は不可能だとは思っていません。そうやって、いつしか自発的な意志を持ったアンドロイドが生まれるならば、ヒトとアンドロイドとの境界は、もしかすると山本弘が述べるように、「夢をみること」なのかもしれません。ただ……。自発的な意志を持ったアンドロイドが「夢をみない」というのは違和感があります。何らかの自発的な希望や願望がなければ、自発的であるはずはないと思われますので。すると、アンドロイドも夢をみる(ああ、なんかディックの小説のタイトルみたいだ!)わけで、ますますヒトとの境界はあやふやになっていきそうです。これを突き詰めていけば、アンドロイドが限りなくヒトに近づき、もはやヒトと区別がつかず、ヒトがそのような他者に向かって自発的な意志を感じるのであれば、そのような他者は、完全な「ヒト」なのではないか?という気もしてくるのです。結局、ヒトは同種のホモ・サピエンスの中にだけに、ヒトと同じような自発的な意志と心を感じています。ヒトの自発的な行動と、犬の自発的な行動が違えば、そこには理解を隔てる壁が築かれるように。
ブログなどにある山本弘の言動はあまり好きではないのですが、この作品は好感が持てました。「ヒトは全て認知症である」はよかったですね。たしかに、アンドロイドからみればそうかもしれません。できれば、社会全体が、あるいは全てのヒトが、この物語のように善良で合理的であればいいのですが。
少し不満があるとすれば、少子化の説明が不十分だったこと。なぜヒトが少子化してしまうのかを、もう少し掘り下げて欲しかったですね。しかも、社会学的ではなく、生物学的な理由を模索して欲しかったと思います。
2011年7月4日月曜日
時の娘
中村融編「時の娘」を読んでいます。様々な作家のロマンチックな時間SFを集めたアンソロジーです。
ウィリアム・M・リー著「チャリティのことづて」と、デーモン・ナイト著「むかしをいまに」を読了です。
「チャリティのことづて」は、西暦1700年と1965年に暮らす男女が知り合って恋に落ちるというお話しです。それぞれ、肉体的には触れ合えませんが、会話や料理の味、匂いなどは共有できたようです。1700年に暮らすチャリティは、1965年に暮らすピーターから聞いた、あるいは一緒に体験したことを、1700年に暮らす友人に打ち明けたところ、魔女の疑いをかけられてしまいます。
そこで、ピーターは、チャリティを救うために、街の歴史を調べ、チャリティを裁く予定の治安判事ジョーナス・ハッカーがじつは殺人犯であったことを突きとめます。
チャリティは裁判で、殺人を千里眼の能力で見たと匂わし、死体が埋めてある場所は地下室であり、証拠の品もそのすぐそばに埋めてあると証言します。
これ、じつは治安判事ジョーナス・ハッカーの家の地下室なのですが、自分が犯人であることを明かされることを恐れたハッカーは、チャリティを無罪放免します。
で、めでたし、めでたし──、なのですが、僕は心配です。
ハッカーがこの後死体を焼却処分し、その他の証拠隠滅を図れば、1965年においてピーターが、ハッカーが殺人犯であることを知る術がなくなってしまいます。すると、哀れ、チャリティは魔女の汚名を着せられたまま絞首刑か火あぶりに……。
ここでも、見事にパラドックスが成立していますね。
デーモン・ナイト著「むかしをいまに」は、時間が逆行していく世界のお話しです。死んだ瞬間が、生まれた瞬間であり、ひげそりを当てることでひげが生え剃り、友人とテーブルに座ってビールを吐き出しながら会話をします。ビデオテープを逆回ししているように物語は進んでいき(?)、やがて主人公は子供時代まで成長(?)して、そしてようやく自分の母親に出会います。
せつないような、それでいてどこかユーモラスで、でも時間というものについて、少し考えさせられるようなお話しです。「失った過去」などといった時間の感覚は、それを主観的に捉えている人間が勝手に生み出したもので、この世界がたまたまそういう分子や原子の状態であっただけであり、僕達がそれを「時間の経過」と感じるのは、その分子や原子が同じ状態に戻れる確率がほぼゼロに近いからなのだろうか、などと想像してみました。熱力学的平衡に達した系では、時間の経過という概念がなくなってしまうように、僕達の暮らしている世界は、局所的に熱力学的落差が生じていて、たまたま、その落差が作り出した流動の中に、僕達は時間を感じているのではないかと……。
そう考えれば、時間の進行も逆行も、そう意味のあることではなく、自分の子供時代も現在も、同じ時間の中の、違った分子や原子の状態であり、失った過去などいうものは、もしかしたら、僕のすぐ隣にある原子が演出していた状態なのかもしれないなぁ、と。
いや、ガラにもなく、そんなことを考えてしまいました。
ウィリアム・M・リー著「チャリティのことづて」と、デーモン・ナイト著「むかしをいまに」を読了です。
「チャリティのことづて」は、西暦1700年と1965年に暮らす男女が知り合って恋に落ちるというお話しです。それぞれ、肉体的には触れ合えませんが、会話や料理の味、匂いなどは共有できたようです。1700年に暮らすチャリティは、1965年に暮らすピーターから聞いた、あるいは一緒に体験したことを、1700年に暮らす友人に打ち明けたところ、魔女の疑いをかけられてしまいます。
そこで、ピーターは、チャリティを救うために、街の歴史を調べ、チャリティを裁く予定の治安判事ジョーナス・ハッカーがじつは殺人犯であったことを突きとめます。
チャリティは裁判で、殺人を千里眼の能力で見たと匂わし、死体が埋めてある場所は地下室であり、証拠の品もそのすぐそばに埋めてあると証言します。
これ、じつは治安判事ジョーナス・ハッカーの家の地下室なのですが、自分が犯人であることを明かされることを恐れたハッカーは、チャリティを無罪放免します。
で、めでたし、めでたし──、なのですが、僕は心配です。
ハッカーがこの後死体を焼却処分し、その他の証拠隠滅を図れば、1965年においてピーターが、ハッカーが殺人犯であることを知る術がなくなってしまいます。すると、哀れ、チャリティは魔女の汚名を着せられたまま絞首刑か火あぶりに……。
ここでも、見事にパラドックスが成立していますね。
デーモン・ナイト著「むかしをいまに」は、時間が逆行していく世界のお話しです。死んだ瞬間が、生まれた瞬間であり、ひげそりを当てることでひげが生え剃り、友人とテーブルに座ってビールを吐き出しながら会話をします。ビデオテープを逆回ししているように物語は進んでいき(?)、やがて主人公は子供時代まで成長(?)して、そしてようやく自分の母親に出会います。
せつないような、それでいてどこかユーモラスで、でも時間というものについて、少し考えさせられるようなお話しです。「失った過去」などといった時間の感覚は、それを主観的に捉えている人間が勝手に生み出したもので、この世界がたまたまそういう分子や原子の状態であっただけであり、僕達がそれを「時間の経過」と感じるのは、その分子や原子が同じ状態に戻れる確率がほぼゼロに近いからなのだろうか、などと想像してみました。熱力学的平衡に達した系では、時間の経過という概念がなくなってしまうように、僕達の暮らしている世界は、局所的に熱力学的落差が生じていて、たまたま、その落差が作り出した流動の中に、僕達は時間を感じているのではないかと……。
そう考えれば、時間の進行も逆行も、そう意味のあることではなく、自分の子供時代も現在も、同じ時間の中の、違った分子や原子の状態であり、失った過去などいうものは、もしかしたら、僕のすぐ隣にある原子が演出していた状態なのかもしれないなぁ、と。
いや、ガラにもなく、そんなことを考えてしまいました。
2011年7月3日日曜日
迷彩服に身を包んだ老淑女
黒崎政男著「となりのアンドロイド」、読了です。
気まぐれに、哲学者黒崎政男の本を読んでみました。
アンドロイドを作るということは、人を知るということだ──、それは、哲学者であろうと工学者であろうと同じことだと思うのですが、人とは何かを問い続けた長い歴史を持つ哲学からのアンドロイド考察は、より人の持つ深みについて理解しているように思われます。そのためか、黒崎はアンドロイドの中の知能や自由意志については悲観的です。ただ、人も、物質から作られたものです。その物質が、知能や意識を組み上げることが可能だということは、アンドロイドの中の知能や自我に類似した何かは、これからのAI研究の中で作られていくであろうと、僕は予測しています。それは、同時に哲学的な人の理解の変化も伴うだろうと予測できます。
そして現在、モンゴメリ著「アンの友達 赤毛のアン・シリーズ4」を読んでいます。
これまでの長編とは違い、アンの周囲の人たちを描いた短編集となっています。その中の「ロイド老淑女」を取り上げてみたいと思います。
老淑女マーガレット・ロイドは、スペンサーヴェルの新米の音楽教師が、シルヴィア・グレイという名の娘であることを知ります。
シルヴィア・グレイというのは、老淑女が若い頃に恋をしたレスリー・グレイの娘で、ロイド老淑女は、シルヴィアに喜んでもらうと、森の中で様々な贈り物をします。
そして、シルヴィアの喜ぶ顔がみたいばかりに、こっそりとえぞ松の陰から、ロイド老淑女はシルヴィアを窺うのです。
少し、抜粋します。
──ここから──
それがすむと、老淑女はそろそろとえぞ松の茂みのうしろにかくれた。身をかくすために濃緑色の絹の服をまとっていた。
──ここまで──(新潮文庫 モンゴメリ著 村岡花子訳「アンの友達」42頁より)
おまえは、ランボーか! (^_^;)
顔にも、迷彩色を塗ってそうですね。
これでサバイバルナイフでも持っていたら、シルヴィアは背後から忍び寄ってきたロイド老淑女に、喉を掻き切られそうです。w
いや、実際は、なかなか可愛いお話しでした。(茶化してすいません)
気まぐれに、哲学者黒崎政男の本を読んでみました。
アンドロイドを作るということは、人を知るということだ──、それは、哲学者であろうと工学者であろうと同じことだと思うのですが、人とは何かを問い続けた長い歴史を持つ哲学からのアンドロイド考察は、より人の持つ深みについて理解しているように思われます。そのためか、黒崎はアンドロイドの中の知能や自由意志については悲観的です。ただ、人も、物質から作られたものです。その物質が、知能や意識を組み上げることが可能だということは、アンドロイドの中の知能や自我に類似した何かは、これからのAI研究の中で作られていくであろうと、僕は予測しています。それは、同時に哲学的な人の理解の変化も伴うだろうと予測できます。
そして現在、モンゴメリ著「アンの友達 赤毛のアン・シリーズ4」を読んでいます。
これまでの長編とは違い、アンの周囲の人たちを描いた短編集となっています。その中の「ロイド老淑女」を取り上げてみたいと思います。
老淑女マーガレット・ロイドは、スペンサーヴェルの新米の音楽教師が、シルヴィア・グレイという名の娘であることを知ります。
シルヴィア・グレイというのは、老淑女が若い頃に恋をしたレスリー・グレイの娘で、ロイド老淑女は、シルヴィアに喜んでもらうと、森の中で様々な贈り物をします。
そして、シルヴィアの喜ぶ顔がみたいばかりに、こっそりとえぞ松の陰から、ロイド老淑女はシルヴィアを窺うのです。
少し、抜粋します。
──ここから──
それがすむと、老淑女はそろそろとえぞ松の茂みのうしろにかくれた。身をかくすために濃緑色の絹の服をまとっていた。
──ここまで──(新潮文庫 モンゴメリ著 村岡花子訳「アンの友達」42頁より)
おまえは、ランボーか! (^_^;)
顔にも、迷彩色を塗ってそうですね。
これでサバイバルナイフでも持っていたら、シルヴィアは背後から忍び寄ってきたロイド老淑女に、喉を掻き切られそうです。w
いや、実際は、なかなか可愛いお話しでした。(茶化してすいません)
2011年7月2日土曜日
14世紀のドイツは宇宙人がいっぱい
パオロ・バチガルピ著「ねじまき少女」上巻下巻、読了です。
ん~、これ、どう評価しよう……。(^_^;)
微妙だ。w
本当に、この作品は海外で賞を総なめにしたのでしょうか?
ハヤカワ文庫の帯に書いてある煽り文句にも、少し違和感があります。
グレッグ・イーガン、テッド・チャンを超える リアルなビジョンを提示した新時代のエコSF
グレッグ・イーガンやテッド・チャンは、リアルなビジョンを提示したから面白かったわけではなく、作品が暗喩的だったから面白かったと思うのです。そんな暗喩的な作品のリアリズムの部分を超えたからといって、何を驚くようなことがあるのかと……?
しかも、僕はこの作品にリアルなビジョンを感じないのですよね。
この作品の何がいいのか、具体的に説明できる方、僕にぜひその面白さを教えていただきたい!
続けて……。
小川一水著「風の邦 星の渚 レーズスフェント興亡記」上巻下巻、読了です。
一気に読了です。
舞台が14世紀のドイツということで、どうしてもマイクル・フリン著「異星人の郷」と比較してしまいます。その時代の、その土地の、あるいは人々の、描写における詳細さについては、マイクル・フリンの作品の方に分があるようです。しかし、一水は、一水らしい(というか、日本人ウケする)軽妙で楽しい物語を紡いでいます。楽観的とも言えるルドガーの行動も、アニメ的でいいですね。レーズのような地球外知的生命体が味方についていなければ、彼は何度死んでいたでしょうか!w
キリスト教による西洋的な思想の影響が少ない日本人だからこそ書けた、そんな作品だと思います。
「ねじまき少女」に登場する性愛の奉仕をするアンドロイド・エミコと、「天冥の標」に登場する<恋人たち(ラバーズ)>を比較してみても、「ねじまき少女」が、最期まで、性愛の奉仕をするような行動を軽蔑すべき行動であるとみなし、エミコにそのような行為を忌避させようとしていますが、「天冥の標」は、性愛の奉仕をするような行為について肯定的に描いています。これは、倫理的には非常にリベラルな考え方で、何らかの思想や宗教観の影響からはほど遠い思考なのではないかと思うわけです。
セックスを求めている人たちに対して、そのようなサービスを与えることがなぜ忌避されなければならないのか?あるいは、軽蔑されなければならないのか?
子供も生めないアンドロイドなら、べつに何したっていいじゃん!という問題ではありません。こういった倫理観が、生得的なのか学習によるものなのかも興味あるところです。社会的なほ乳類である人類は、なぜ性愛的な娯楽を蔑んでしまうのでしょうか。
これは僕の個人的な印象なのですが、人形や二次元キャラに夢中になる人たちに嫌悪感を抱くような感情と、性愛の奉仕をするようなアンドロイドを蔑む人たちの感情は、似ているのではないか、と思っています。嫌悪感の度合いによって、あるいは許容する度合いによって、その人がどれほどリベラルであるのかを知る目安になり得ると思うのです。
僕は、キリスト教などによる西洋的な思想に影響を受けなくて、本当に良かったと思っています。そうすると、一水の作品が面白く感じなかった可能性もあるわけですので(あと、アニメも)……。(^_^;)
これからの読書計画です。
モンゴメリ著「アンの友達 赤毛のアン・シリーズ4」と「アンの幸福 赤毛のアン・シリーズ5」。
小川一水著「導きの星 1~4」。僕は、一水のこの代表作を読んでいないことに気付きました。
「ここがウィネトカなら、きみはジュディ 時間SF傑作選」。
「時の娘 ロマンティック時間SF傑作選」。時間SFが二冊続きます。
山本弘著「アイの物語」。ここ数年、SFをあまり読んでいなかったので、今年はできるだけ多く読みたいと思っています。
そして、桜庭一樹著「GOSICK VIII上‐ゴシック・神々の黄昏‐」です。
読む順番は決めていませんが「GOSICK VIII」は、下巻が出てからまとめて読むかもしれません。ヴィクトリカと一弥くんには、ぜひ幸せになって欲しいですね。
ん~、これ、どう評価しよう……。(^_^;)
微妙だ。w
本当に、この作品は海外で賞を総なめにしたのでしょうか?
ハヤカワ文庫の帯に書いてある煽り文句にも、少し違和感があります。
グレッグ・イーガン、テッド・チャンを超える リアルなビジョンを提示した新時代のエコSF
グレッグ・イーガンやテッド・チャンは、リアルなビジョンを提示したから面白かったわけではなく、作品が暗喩的だったから面白かったと思うのです。そんな暗喩的な作品のリアリズムの部分を超えたからといって、何を驚くようなことがあるのかと……?
しかも、僕はこの作品にリアルなビジョンを感じないのですよね。
この作品の何がいいのか、具体的に説明できる方、僕にぜひその面白さを教えていただきたい!
続けて……。
小川一水著「風の邦 星の渚 レーズスフェント興亡記」上巻下巻、読了です。
一気に読了です。
舞台が14世紀のドイツということで、どうしてもマイクル・フリン著「異星人の郷」と比較してしまいます。その時代の、その土地の、あるいは人々の、描写における詳細さについては、マイクル・フリンの作品の方に分があるようです。しかし、一水は、一水らしい(というか、日本人ウケする)軽妙で楽しい物語を紡いでいます。楽観的とも言えるルドガーの行動も、アニメ的でいいですね。レーズのような地球外知的生命体が味方についていなければ、彼は何度死んでいたでしょうか!w
キリスト教による西洋的な思想の影響が少ない日本人だからこそ書けた、そんな作品だと思います。
「ねじまき少女」に登場する性愛の奉仕をするアンドロイド・エミコと、「天冥の標」に登場する<恋人たち(ラバーズ)>を比較してみても、「ねじまき少女」が、最期まで、性愛の奉仕をするような行動を軽蔑すべき行動であるとみなし、エミコにそのような行為を忌避させようとしていますが、「天冥の標」は、性愛の奉仕をするような行為について肯定的に描いています。これは、倫理的には非常にリベラルな考え方で、何らかの思想や宗教観の影響からはほど遠い思考なのではないかと思うわけです。
セックスを求めている人たちに対して、そのようなサービスを与えることがなぜ忌避されなければならないのか?あるいは、軽蔑されなければならないのか?
子供も生めないアンドロイドなら、べつに何したっていいじゃん!という問題ではありません。こういった倫理観が、生得的なのか学習によるものなのかも興味あるところです。社会的なほ乳類である人類は、なぜ性愛的な娯楽を蔑んでしまうのでしょうか。
これは僕の個人的な印象なのですが、人形や二次元キャラに夢中になる人たちに嫌悪感を抱くような感情と、性愛の奉仕をするようなアンドロイドを蔑む人たちの感情は、似ているのではないか、と思っています。嫌悪感の度合いによって、あるいは許容する度合いによって、その人がどれほどリベラルであるのかを知る目安になり得ると思うのです。
僕は、キリスト教などによる西洋的な思想に影響を受けなくて、本当に良かったと思っています。そうすると、一水の作品が面白く感じなかった可能性もあるわけですので(あと、アニメも)……。(^_^;)
これからの読書計画です。
モンゴメリ著「アンの友達 赤毛のアン・シリーズ4」と「アンの幸福 赤毛のアン・シリーズ5」。
小川一水著「導きの星 1~4」。僕は、一水のこの代表作を読んでいないことに気付きました。
「ここがウィネトカなら、きみはジュディ 時間SF傑作選」。
「時の娘 ロマンティック時間SF傑作選」。時間SFが二冊続きます。
山本弘著「アイの物語」。ここ数年、SFをあまり読んでいなかったので、今年はできるだけ多く読みたいと思っています。
そして、桜庭一樹著「GOSICK VIII上‐ゴシック・神々の黄昏‐」です。
読む順番は決めていませんが「GOSICK VIII」は、下巻が出てからまとめて読むかもしれません。ヴィクトリカと一弥くんには、ぜひ幸せになって欲しいですね。
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