気がつくと、僕は修学旅行で京都にいた。いや、たぶん京都だと思う。石段と坂道。あれは以前、京都を旅したときに見た風景だ。
ほら、あの場所は舞妓さんが立っていて、観光客から写真を撮られていた場所じゃないか。
ほころびかけた記憶の断片を辿って、僕はゆっくりと歩く。
人影はまばらなのだが、僕は妙にうきうきしていて、笑顔を振りまく隣の彼女と冗談を言い合った。
不思議と声は聞こえてこない。声は聞こえないのだが、彼女の楽しさだけは伝わってくる。
大きな目を細め、ツインテールの髪を揺らし、僕の腕に自分の腕を絡めて笑う。紺色のセーラー服に白いタイ。半袖から覗いた白い腕が、僕に柔らかく触れていた。
彼女の名前は福沢祐巳。同じ高校の二年生。
表情の豊かな女の子だ。
めまぐるしく表情の変わる彼女が何かしゃべるたびに僕は相づちを打つ。彼女は、そんな僕の単純な反応で、さらに機嫌を良くした。
同級生たちの姿は見えない。自由行動で、僕らはふたりきりになったのだ。
やがて僕たちは、一軒のみやげ物屋に入った。
そこで、僕たちはよく知った人を見つけた。みやげ物屋に並んだ品々から、ひとつだけ手にとって眺めているワンピースのセーラー服を着たスラリとした女性。少しきつくい、でも憂いのある切れ長な彼女の目が、品定めでもするかのようにみやげ物に視線を注いでいる。うつむき加減でみやげ物を見つめていた彼女は、顔に落ちてきた長い黒髪を、片手でスッとかき上げた。
三年生の小河原祥子さまだ。
たぶん、祐巳ちゃんのことが気になって、京都まで来たんだ。
僕はそんなふうに想像した。
話しかけようか?
でも、祥子さまは男嫌いだ。僕が話しかけるわけにはいかない。
「祐巳ちゃん、お姉さま来てるよ。話してきなよ」
僕はそんなふうに言った。いや、たぶん言ったのだと思う。
すると祐巳ちゃんはうなずいてから、とてもうれしそうな顔をして駆け出した。ミニのプリーツスカートが祐巳ちゃんの体の動きに合わせて揺れ、一瞬だけ純白のショーツが顔を覗かせた。
祥子さまのもとに、弾むように駆け出した祐巳ちゃん。
その後ろ姿を見送る僕。
そこで、目が覚めた。
夢オチかよ!(^_^;)
すいません。脳みそが煮え切ったような、こんな夢を見てしまいました。w
いや、前日ですね、ちょっと仕事で嫌なことがあったのですよ。
で、悪い夢でも見るかな?とか思っていたわけなのですが、予想とは大違い。なんとも幸せな夢を見てしまいました。
仕事のことなんて、これっぽっちも考えちゃいねぇ。w
っていうか、これってメチャクチャ良い夢だったのではないか?僕が一生の内に何度見るかわからないほど、貴重でスウィートでエクセレントな夢だったのではないか?
と、思ったのですよ。マジで。
で、目が覚めた時間が4:00だったので、もしかして夢の続きを見られるかも?と思い、必死で二度寝を試みました。
でも、一度目が覚めてしまうと、なかなか寝付けないものですね。余計に目がさえちゃいました。
まぁ、寝たからといって、同じ夢を見られる保証もないんですけど。
それにしても、今回の夢、今野緒雪著「マリア様がみてる」の小説と、設定が同じ箇所もあれば、まったく違う箇所もあります。夢って、都合の良いようにできています。
まず、修学旅行の場所。
「マリア様がみてる」の修学旅行はイタリアなのですが、夢では京都です。僕がイタリアに行ったことないからなのでしょう。
次に祐巳ちゃんの通う高校はリリアン女学園なので女子高なのですが、夢では共学でした。共学じゃないと、僕は登場できません。
あと、リリアンの制服は長いスカート丈でワンピースのセーラー服なのですが、夢ではミニスカートでした。これはたぶん、僕の好みを反映しているのでしょう。
祐巳ちゃんが表情豊かなところや、祥子さまが男嫌いなところは原作通りです。
祐巳ちゃんと祥子さまは、あのみやげ物屋でどんな会話をしたんだろう?
ああ、続きが気になるなぁ。(^_^;)
2011年5月20日金曜日
2011年5月19日木曜日
「殺人」だけの特別な因子
上田早夕里著「魚舟・獣舟」、読了です。
結局、最期まで上田早夕里の小説には納得できませんでした。
「小鳥の墓」においても、あたかも「人殺しの遺伝子」があるような記述に違和感があります。
少し抜粋します。
──ここから──
人類の歴史上、殺人という行為が途絶えなかったのは、人類の中に常に、簡単に殺人モードに移行する個体が発生する仕組みになっている、もしくは誰もがその因子を持っていると考えると、筋が通るのかもしれない。
──ここまで──(光文社文庫・上田早夕里著「魚舟・獣舟」302頁)
この数行に、「浮気をするのは遺伝子のせい」といった妙な解釈に似た、誤った思想を感じます。
仮に、殺人の因子が全ての人類にあるとしても、殺人を犯した理由が、本当にその因子にあるとどうやって特定するというのでしょう。それに、行動の全て──、殺人や窃盗や強姦や援助や寄付や恋愛など、すべての行動に特定の因子があり、その因子によって行動が引き起されているかのようにも思えます。
しかし、恋愛を引き起す因子は、逆に強姦や殺人を引き起すかもしれないし、援助や寄付と言った行為も、窃盗と同じく打算的な行為かもしれません。
殺人という突出した悪行だけに注目すれば、その行為だけが何らかの特殊な因子に起因しているかのように感じるのかも知れません。しかし、殺人という行為だけが独立した因子によって成り立っているわけではなく、日常生活をおくる上での様々な感情や行為の因子と連携しながら生じた結果の罪であるならば、その行為もまた、もしかするとヒトにとっての「日常」なのかもしれません。
結局、最期まで上田早夕里の小説には納得できませんでした。
「小鳥の墓」においても、あたかも「人殺しの遺伝子」があるような記述に違和感があります。
少し抜粋します。
──ここから──
人類の歴史上、殺人という行為が途絶えなかったのは、人類の中に常に、簡単に殺人モードに移行する個体が発生する仕組みになっている、もしくは誰もがその因子を持っていると考えると、筋が通るのかもしれない。
──ここまで──(光文社文庫・上田早夕里著「魚舟・獣舟」302頁)
この数行に、「浮気をするのは遺伝子のせい」といった妙な解釈に似た、誤った思想を感じます。
仮に、殺人の因子が全ての人類にあるとしても、殺人を犯した理由が、本当にその因子にあるとどうやって特定するというのでしょう。それに、行動の全て──、殺人や窃盗や強姦や援助や寄付や恋愛など、すべての行動に特定の因子があり、その因子によって行動が引き起されているかのようにも思えます。
しかし、恋愛を引き起す因子は、逆に強姦や殺人を引き起すかもしれないし、援助や寄付と言った行為も、窃盗と同じく打算的な行為かもしれません。
殺人という突出した悪行だけに注目すれば、その行為だけが何らかの特殊な因子に起因しているかのように感じるのかも知れません。しかし、殺人という行為だけが独立した因子によって成り立っているわけではなく、日常生活をおくる上での様々な感情や行為の因子と連携しながら生じた結果の罪であるならば、その行為もまた、もしかするとヒトにとっての「日常」なのかもしれません。
2011年5月18日水曜日
ヒトとは思えない登場人物たち
上田早夕里への反論、その第2回目です。
短編「魚舟・獣舟」の中で、上田は、線虫とヒトの遺伝子数を比較し、線虫が二万、ヒトが二万三千であることから、生物の複雑な差異は遺伝子の数に依存しないことを述べています。つまり、生物の表現型は、遺伝子をどうやって・何回・どんな組み合わせで使いまわすかで決まり、それを応用することで、魚舟のような表現型を持ったヒトも生み出すことができる──、と説明しています。
つまり、この行は、僕の2011年5月12日木曜日のブログ「華竜の宮」で述べたことが、少し誤りであることを明らかにしました。上田は、この短編において、魚舟の科学的な背景を述べていたのです。
しかし、それでも僕はこの説明に納得するわけにはいきません。
ヒトの遺伝子の使用回数や組み合わせを変え、誘導の連鎖反応をものの見事に書き換えて、ヒトの遺伝子で線虫が生み出せるのなら、その線虫もヒトであることになります。(両生類のような生物に変わることができるのならば、線虫にだって!w)
では、逆の場合はどうでしょう。ヒトよりも遺伝子数が多い植物やミジンコなどの生物の遺伝子を利用し、ヒトもできるのではないでしょうか?何か悪夢のようですが、これが可能であれば、ヒトの遺伝子を改変する必要などなく、ミジンコや植物(これも死滅してしまうのならば、地熱を利用するような微生物など)が生き残ってくれれば、それでいいような気もします。(^_^;)
そして、ヒトにとって都合の良い世界がやがて訪れたとき、ヒトに変わるためのスイッチが入って、ミジンコがヒトになる──。こっちの方が、SF的にも面白いのではないかと思うのですが、どうでしょう?
次に、もし、魚舟にならなければ、ヒトが地球環境に適応できないような場合、果たしてそれをヒトが受け入れられるかどうか、です。
僕は、受け入れられないのではないか?と思うのです。
ヒトが、好ましいと思うか好ましくないと思うのか、それには傾向のようなものがあって、自分のふたごが魚舟のような容姿を持って生まれてくることに、少なからず嫌悪感を抱くだろうと予想できます。(あるいは、魚舟の容姿をまとって生まれてくるのは、自分自身かもしれません)ヒトが、好ましく思う容姿は、やはり自分に似た姿であり、いかに海上生活に適応しようとも、両生類のような容姿ではないと思うのです。性淘汰のような場合、そこには雄や雌の選好性が大きく関わってきます。わずかな両目の距離の違い鼻の横幅の差異であっても、それを好ましく感じたり好ましくないと感じたりする生き物が、果たして両生類のような外観を受け入れることができるのでしょうか。
僕は上田の作品に感動も何も感じないと述べました。それは、上記のような理由によります。「魚舟・獣舟」でのヒトが、どう考えても、僕の知っているヒトとは違った思考を持っているとしか思えず、彼らを僕とは同じヒトとは到底思えないからです。よって、「魚舟・獣舟」で活躍している登場人物たちは、ヒトに似た別の生き物であり、そこから「ヒトとは何か?」といったような議論は導かれません。
2011年5月16日月曜日
人はどうして海を美しいと思うのか
上田早夕里著「魚舟・獣舟」、上田早夕里の良さがまったく理解できないまま、読み進めています。
短編「ブルーグラス」まで、読み終えました。
伸雄がブルーグラスを珊瑚礁に置いてきたこと自体、立派な環境破壊である、ということ以外に、なんか、よくわからん話です。(^_^;)
132頁より、一部抜粋します。
──ここから──
人類の本質が、海洋を利用し、汚染し続けることにこそあるのだとすれば、なぜ自分たちは、この厳しくたおやかな世界が失われるのをこれほどまでに惜しむのだろう。どうして海を、ただの資源として割り切って見られないのか。宇宙空間を漂う鉱物資源と同じ感覚で見られれば、これほど苦悩はしないだろうに。なぜ自分たちは、海という存在を、これほどまでに愛してしまうのか。
──ここまで──(光文社文庫・上田早夕里著「魚舟・獣舟」132頁)
この答えは簡単です。それは、自分たちにとって都合の良い環境が失われてしまうことへの危機感が、人をそのような感情へと導くからですね。
よく、「地球に優しい」という言葉を耳にしますが、地球は、破壊されようが汚染されようが、生物が絶滅しようが、無関心なままです。何が起ろうと、太陽のまわりを回り続けるでしょう。地球にとって、海洋汚染や大気汚染など、どうでもいいことなのですよね。では、なぜ、そのような行為に人が危機感を募らせるのかと言えば、人にとって都合の良い環境が破壊されてしまうからに他ありません。「地球に優しい」と思っていた行為は、じつは「人に優しい」行為だったのです。
人は、海だけではなく、古くから森林なども保護してきました。その理由は、領主の狩場が荒らされるからという理由でした。これと、現代における環境保護は、同じ物です。「領主の狩場」が「人類の狩場」に置き換わっただけで、どちらも、自分たちにとって利用できる都合の良い環境を保全しようと考えていることに違いはないのですから。
宇宙空間を漂う鉱物資源がなくなってしまうことに、人は何の感情も抱かないでしょう。なぜなら、そこは、自分たちにとって都合いい環境とは言えないからです。鉱物資源が枯渇することによる経済的な心配をするだけですね。
あと、「人類の本質が、海洋を利用し、汚染し続けることにこそある」は、「生物の本質が、」と改めさせていただきたい。
あの美しい珊瑚礁に住む生物たちが、海洋を利用し、汚染し続けていることは明らかです。仮に、ある種のヒトデが爆発的に数を増やしたとしても、そのヒトデは妥協することなく海洋をこれまでと同様に利用し、汚染範囲を広げようとするだろうし、サンゴすら、できることならば海洋を利用し尽くすまで、個体数を増やそうとするでしょう。美しい色や模様をした熱帯の魚たちも、可能であるならば他の生物を根絶やしにするまでその数を無限に増やし続け、海洋資源を蹂躙し続けるでしょう。この力関係の葛藤が生物の多様性の正体であり、人が多様性のある海を美しいと感じるのは、それが単に人にとって都合の良い環境だからです。もしかするとシアノバクテリアにとって美しい環境とは、もっと違うものなのかもしれません。
上田早夕里を読むと、反論したいことの方が多すぎて、何かすっきりしない──。たぶん、反論はまだまだ続きます。(^_^;)
短編「ブルーグラス」まで、読み終えました。
伸雄がブルーグラスを珊瑚礁に置いてきたこと自体、立派な環境破壊である、ということ以外に、なんか、よくわからん話です。(^_^;)
132頁より、一部抜粋します。
──ここから──
人類の本質が、海洋を利用し、汚染し続けることにこそあるのだとすれば、なぜ自分たちは、この厳しくたおやかな世界が失われるのをこれほどまでに惜しむのだろう。どうして海を、ただの資源として割り切って見られないのか。宇宙空間を漂う鉱物資源と同じ感覚で見られれば、これほど苦悩はしないだろうに。なぜ自分たちは、海という存在を、これほどまでに愛してしまうのか。
──ここまで──(光文社文庫・上田早夕里著「魚舟・獣舟」132頁)
この答えは簡単です。それは、自分たちにとって都合の良い環境が失われてしまうことへの危機感が、人をそのような感情へと導くからですね。
よく、「地球に優しい」という言葉を耳にしますが、地球は、破壊されようが汚染されようが、生物が絶滅しようが、無関心なままです。何が起ろうと、太陽のまわりを回り続けるでしょう。地球にとって、海洋汚染や大気汚染など、どうでもいいことなのですよね。では、なぜ、そのような行為に人が危機感を募らせるのかと言えば、人にとって都合の良い環境が破壊されてしまうからに他ありません。「地球に優しい」と思っていた行為は、じつは「人に優しい」行為だったのです。
人は、海だけではなく、古くから森林なども保護してきました。その理由は、領主の狩場が荒らされるからという理由でした。これと、現代における環境保護は、同じ物です。「領主の狩場」が「人類の狩場」に置き換わっただけで、どちらも、自分たちにとって利用できる都合の良い環境を保全しようと考えていることに違いはないのですから。
宇宙空間を漂う鉱物資源がなくなってしまうことに、人は何の感情も抱かないでしょう。なぜなら、そこは、自分たちにとって都合いい環境とは言えないからです。鉱物資源が枯渇することによる経済的な心配をするだけですね。
あと、「人類の本質が、海洋を利用し、汚染し続けることにこそある」は、「生物の本質が、」と改めさせていただきたい。
あの美しい珊瑚礁に住む生物たちが、海洋を利用し、汚染し続けていることは明らかです。仮に、ある種のヒトデが爆発的に数を増やしたとしても、そのヒトデは妥協することなく海洋をこれまでと同様に利用し、汚染範囲を広げようとするだろうし、サンゴすら、できることならば海洋を利用し尽くすまで、個体数を増やそうとするでしょう。美しい色や模様をした熱帯の魚たちも、可能であるならば他の生物を根絶やしにするまでその数を無限に増やし続け、海洋資源を蹂躙し続けるでしょう。この力関係の葛藤が生物の多様性の正体であり、人が多様性のある海を美しいと感じるのは、それが単に人にとって都合の良い環境だからです。もしかするとシアノバクテリアにとって美しい環境とは、もっと違うものなのかもしれません。
上田早夕里を読むと、反論したいことの方が多すぎて、何かすっきりしない──。たぶん、反論はまだまだ続きます。(^_^;)
2011年5月15日日曜日
魚舟・獣舟
上田早夕里著「魚舟・獣舟」を読んでいます。
現在、短編「真珠の街」まで読了です。
で、ひとつ質問なんですけど、これって面白いのですか?(^_^;)
僕には、上田早夕里の良さがまったくわかりません。SF業界では高評価らしいのですが、僕の琴線にはまったく触れてこない──。読み終わっても、何も感じないのですよね。なぜだろう?
例えば、「魚舟・獣舟」にしても、魚舟が、朋を失い獣舟に変わる、などの奇異な生態が、現代人にとっての何かのアナロジーであるというような示唆も何もないし、それ故に、獣舟の鳴き声が、人類の挽歌であるという行も、さっぱり理解できません。
「くさびらの道」にしても、狂言が元の作品であるといったことが、少し僕には楽しかったのですが、それ以上のものを感じないし、何かを示唆するものも感じ取れなかったですね。山岸真の解説を読んで、これが“幽霊の考察”というお題を与えられての作品であるとわかってはじめて、ああ、確かに幽霊とはこういうものだろうな、と後から考えたくらいです。でも、そこで述べられている幽霊の考察にしても、そう驚くようなものではないわけで、どちらかというと古典的ですらあると思うのです。
面白いかなぁ、これ?
(^_^;)
現在、短編「真珠の街」まで読了です。
で、ひとつ質問なんですけど、これって面白いのですか?(^_^;)
僕には、上田早夕里の良さがまったくわかりません。SF業界では高評価らしいのですが、僕の琴線にはまったく触れてこない──。読み終わっても、何も感じないのですよね。なぜだろう?
例えば、「魚舟・獣舟」にしても、魚舟が、朋を失い獣舟に変わる、などの奇異な生態が、現代人にとっての何かのアナロジーであるというような示唆も何もないし、それ故に、獣舟の鳴き声が、人類の挽歌であるという行も、さっぱり理解できません。
「くさびらの道」にしても、狂言が元の作品であるといったことが、少し僕には楽しかったのですが、それ以上のものを感じないし、何かを示唆するものも感じ取れなかったですね。山岸真の解説を読んで、これが“幽霊の考察”というお題を与えられての作品であるとわかってはじめて、ああ、確かに幽霊とはこういうものだろうな、と後から考えたくらいです。でも、そこで述べられている幽霊の考察にしても、そう驚くようなものではないわけで、どちらかというと古典的ですらあると思うのです。
面白いかなぁ、これ?
(^_^;)
2011年5月12日木曜日
華竜の宮
上田早夕里著「華竜の宮」、読了です。
この作品を読んでいて最初に思い出したのが、ポール・ディ・フィリボ著の短編「系統発生」(河出書房「20世紀SF80年代」)です。この短編の内容は、地球外生命体によって地球を侵略された人類が、ウィルスとなって種を保存しようとするもの。かなりぶっ飛んだ(^_^;)内容だっただけに、強烈に印象に残った作品です。その時の感想が、「それってすでに人類ではないのでは?」でした。
この「華竜の宮」でも、「日本沈没」ならぬ「世界沈没」といった地球規模での災害が、人類を人体改変へと向かわせます。海上の生活に適応した人類として人体改変された海上民は、子供として生まれるときに、魚舟と呼ばれるサンショウウオに似た魚のような生き物と同時に生まれてきます。そんな生態に改変されることを、人類は本当に望むのでしょうか?
科学らしさ、というか、科学的な度合いのようなものが、地球惑星科学に関する話に偏った反面、魚舟や獣舟に関する生命科学の科学らしさが希薄であるため、非常にアンバランスな作品であるように思います。獣舟が変異を繰り返して、人と同じ形になるには、どれほどの偶然が積み重なればいいのでしょうか。自らの身体から、異形の者がうまれることに喜びをおぼえるような神経パターンに書き換えられることを望む人類が、果たしてどれくらいいるのでしょう。っていうか、そこまで表現型の変化した人類の遺伝子は、それまでの人類の遺伝子型と何%くらいの一致を見せるのでしょう。
僕のようなダメ人間が想像する以上に、人類というのは崇高な目標を持っていて、人類オリジナルの遺伝子(が、いくぶんか含まれている遺伝子)をいかにその表現型が変化しようとも将来に向けて(自己犠牲を強いられても!)保存しようとするものなのでしょうか?普通に考えれば、残された陸地を巡って、人は争いの中で各々の居場所を見つけるであろうと思われます。何も、進んで自らの身体を改変するなんて酔狂なヤツは、そうはいないだろうと思うのです。
海底の隆起による海面上昇が世界中の多くの陸地を水没させた、という設定にリアリティがあるだけに、その後の人体改変や遺伝子組み換えの話が嘘っぽくて残念です。
この作品を読んでいて最初に思い出したのが、ポール・ディ・フィリボ著の短編「系統発生」(河出書房「20世紀SF80年代」)です。この短編の内容は、地球外生命体によって地球を侵略された人類が、ウィルスとなって種を保存しようとするもの。かなりぶっ飛んだ(^_^;)内容だっただけに、強烈に印象に残った作品です。その時の感想が、「それってすでに人類ではないのでは?」でした。
この「華竜の宮」でも、「日本沈没」ならぬ「世界沈没」といった地球規模での災害が、人類を人体改変へと向かわせます。海上の生活に適応した人類として人体改変された海上民は、子供として生まれるときに、魚舟と呼ばれるサンショウウオに似た魚のような生き物と同時に生まれてきます。そんな生態に改変されることを、人類は本当に望むのでしょうか?
科学らしさ、というか、科学的な度合いのようなものが、地球惑星科学に関する話に偏った反面、魚舟や獣舟に関する生命科学の科学らしさが希薄であるため、非常にアンバランスな作品であるように思います。獣舟が変異を繰り返して、人と同じ形になるには、どれほどの偶然が積み重なればいいのでしょうか。自らの身体から、異形の者がうまれることに喜びをおぼえるような神経パターンに書き換えられることを望む人類が、果たしてどれくらいいるのでしょう。っていうか、そこまで表現型の変化した人類の遺伝子は、それまでの人類の遺伝子型と何%くらいの一致を見せるのでしょう。
僕のようなダメ人間が想像する以上に、人類というのは崇高な目標を持っていて、人類オリジナルの遺伝子(が、いくぶんか含まれている遺伝子)をいかにその表現型が変化しようとも将来に向けて(自己犠牲を強いられても!)保存しようとするものなのでしょうか?普通に考えれば、残された陸地を巡って、人は争いの中で各々の居場所を見つけるであろうと思われます。何も、進んで自らの身体を改変するなんて酔狂なヤツは、そうはいないだろうと思うのです。
海底の隆起による海面上昇が世界中の多くの陸地を水没させた、という設定にリアリティがあるだけに、その後の人体改変や遺伝子組み換えの話が嘘っぽくて残念です。
2011年5月7日土曜日
アンの戦略
ゴールデンウィークを利用して、世界名作劇場「赤毛のアン」を一気観しました。
僕のようなヘタレな中年ダメ人間になってくると、マシューの気持ちがよくわかりますね。(^_^;)
原作はどこで終わるのか知りませんが、マシューが死に、マリラの眼病が悪化、アンがクイーン学院の入学を辞退し、マリラの介護のため地元の学校の教師になることを決意してアニメは終わります。意外に現実的な終わり方だったんですね。
マシューとマリラの兄妹は、最初マシューの野良仕事を手伝う男の子を孤児院から引き取るつもりだったのですが、手違いでアボンリーにやってきたアンの、想像力溢れる快活さに魅了され、次第にアンを育てることを生き甲斐とするようになります。
現実的な終わり方、と述べましたが、同時に、これは少女のサクセスストーリーでもあります。経済的な成功ではなく、あくまでも心の豊かさ、及び生存の確かさを得たことへの成功です。
アンの魅力は、マシューやマリラにアンを育てようという感情を芽生えさせ、アンに、彼らの経済支援をもたらします。その結果、アンは金銭的な豊かさは手に入れることができませんでしたが、生きていくことの喜びやその他の様々な豊かさを手に入れることができました。
仮に、アンが無愛想で無口で、人見知りする臆病な性格であったなら、それほど成功していなかったでしょう。そうではなく、アンは明るく利口で機知に富み、兄妹にとって愛すべき存在だったのです。これは、アンの努力によって得られた才能ではありません。そう考えると、アンの遺伝子レベルでの戦略は、見事にマシューやマリラの遺伝子に作用し、互恵的でありながらも、アンはマシューやマリラをうまく利用したと言えるでしょう。
それは悪いことではなく、保護を得やすいようなほ乳類の幼い個体が、生存の確率を大きくすることを示唆しているに過ぎず、他の霊長類などの行動からしても、アンのとった行動は自然なものなのでしょう。血縁関係にない子供をライオンから守るアンテロープも、サバンナには暮らしています。
ダイアナの親戚であるジョセフィンおばさんやアメリカの大富豪が、アンにラブコールを送り、アンはそれでも、育ての親であるマシューとマリラの元から去りません。これって、複数のイケメン男に囲まれているウハウハな少女マンガの主人公と同じ状況で、多様な選択肢を持つ現状を楽しめる幸福な状況であり、その状況は、自分にとって最適な選択をすることが可能であることを保障することでもあります。アンの遺伝子は戦略的に成功したのです。
たぶん、僕のようなひねくれた個体は、サバンナでは、いや、日本でも生き残れません。w
っていうか、僕もアンのような遺伝子に操られることは確実です。(^_^;)
2011/05/08修正
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