これも、過去ネタです。
ずいぶん前になるのですが、エドワード・O ウィルソン著/岸由二訳「人間の本性について」を読みました。
この本の中で、ウィルソンは、同性愛について、以下のように述べています。
抜粋します。
──ここから──
ところで、同性愛はもしかすると、生物学的な意味では正常なのかもしれない。それは、初期人類の社会組織の重要な一要因として進化した、一種の明確な親切行動なのかもしれないのである。私の考えるところでは、この可能性はかなり強いものだと思われる。同性愛者たちは、人間の所有するわずかな利他的衝動のうちのなにがしかを遺伝的に担っている人々なのかもしれないのである。
──ここまで(エドワード・O ウィルソン著/岸由二訳「人間の本性について」ちくま文芸文庫P261より)──
このあと、ウィルソンは「血縁選択説」を挙げて、同性愛だけではなく人間の性行為自体が、繁殖を目的とするものである以上に、人間関係のきずなを深めるための行為として重要であると主張します。
この一節を読んでふと思い出した人物がいました。
佐藤聖です。w (こういうのしか思い出さないオレって……)
今野緒雪著「マリア様がみてる いばらの森」の中で、登場人物の佐藤聖は、久保栞に対する同性愛の強い想いに悩みます。そして、その悩みに回答を得ようと、様々な本を読みます。
こちらも抜粋します。
──ここから──
この気持ちは、いったい何なのであろうか。
私は恋愛に関する小説を片っ端から読みあさった。どこかに私の気持ちを解説し、解決法を伝授してくれるものはないかと思った。でもその結果は、小説嫌いの人間を一人誕生させただけだった。
どんな名作と讃えられた物語でも、自分の身に起きた現実の出来事の教科書にはなりえない。
同性愛を扱った小説も読んではみたが、私の求める答えはどこにも記されてはいなかった。
次に私は、生物やその生殖に関係する本を読み始めた。
その結果思ったことは、私の体内の信号伝達装置はどこか壊れているのかもしれない、ということだった。子孫を残したいと考える遺伝子の策略にはまって男女の恋愛が始まるのならば、遺伝子を半分ずつ持ち寄って一つの生命を作ることのできない同性の私たちが、どうしてこのように惹かれ合わなければならなかったのか。その理由は、どうしてもわからなかった。
──ここまで(今野緒雪著「マリア様がみてる いばらの森」集英社コバルト文庫P240より)──
佐藤聖も、上記のような本を読んでみればよかったですね。(^_^;)
進化心理学などでは、こういった性的なマイノリティにも、なんらかの遺伝的な要素を仮定しようとするらしいのですが、考えてみれば、僕たちが普通に持っている友情とか愛情とかの垣根ってどこにあるのだろうかと考えると、そこには人間独自(あるいは他の動物も含まれるのか?)の性向があるのかもしれません。
まったくの異性である祐巳ちゃんの祥子さまを思う気持ちやその逆、また、瞳子のツンデレに共感できる心を僕たちが持っているということは、そこに共通のプログラムのようなものを感じてしまいます。
ヒトはどこまでが遺伝的でどこからが文化的なのか。その狭間にあるのが性的マイノリティの問題であり、デリケートな議論になると思われます。
こういった曖昧な領域に科学がどこまで迫れるのか、非常に興味があります。カッコウの托卵行動など、明らかに遺伝的な獲得形質なのですが、当然のようにその発現の仕方は、ある遺伝子と一対一の関係にあるわけではなく、複雑なものです。性的マイノリティが遺伝的であるにしろ、その解明は非常に困難であるように思われます。まして、それが文化的な影響下にある生物の行動なので、困難さの度合いはさらに高まりそうです。
それはともかく、今野先生、祐巳と瞳子、由乃と奈々のその後、書いてくれないでしょうかねぇ……。